間違ってはいないが議論の焦点ではない発言をどう処理すべきか悩まされる時間をどう減らすか

 キャンセル等によって余った新型コロナワクチンの扱いは基本的に各自治体に任されているようなのだが、その場合に接種手続きを整えやすいであろう職員をはじめとする自治体関係者が対象となること自体に問題があるとは思わない。ただし、その感情が正当なものだと言えるかどうかは別として、予約するだけでも一苦労だった一般市民から反発の声が挙がってしまうのは予想できる事態だとも思うわけで、既に指摘もあるように、あらかじめのアナウンスはもっと徹底しておくべきだっただろう(もちろん、この慌ただしいなかで様々な不備が生じてしまうこともまた、避けるべきではあっても必要以上に非難されるべきものでもないはずだ)。

 もっとも、あらかじめ職員等が余ったワクチンを接種する可能性が高い旨をしっかり伝えておいたとしても、実際に接種が行われれば、様々な邪推の声が挙がるのもまた想像に難くない。「市民のキャンセルを偽って自分たちが先に接種した」などという陰謀論は、証拠などなくとも世界に極度の不信感を抱く者や「他の者が知らない世界を知っている」という優越感の中毒者たちの間であっという間に「真実」として拡がることだろう(逆に、一般市民を押しのけてまで接種したがっているのだから、ワクチンの有効性そのものに対する信頼が上昇するかもしれない。まあ、陰謀論に囚われた者がそんな妥当な思考の道順を辿れるかどうかはかなり怪しいけれど)。

 結局、どうしたって悪い意味での想像力を完全に抑えこむのは不可能で、できるのは可能な限り被害を最小限に食い止めるためのアナウンスの徹底と、考えられうる批判をあらかじめ想定し説明の手順も用意しておくことくらいだろうか。本来、容易に想像できたはずの事態までもが「想定外」だったとしたなら、それは相当に現場が混乱してしまっているか、体制に根本的な問題があるかだ。

 しかし、「職員の特別枠/優先接種」的な批判が上がってしまうことの問題に対して、「ワクチンを打たずに自粛要請を無視していた者とワクチン提供側で先に接種した者のどちらがまともかは考えるまでもない」などといった議論の焦点からは微妙に外れた内容の発言(優先接種だと批判している者が必ずしも自粛を無視した者とは限らない。むしろ、思考の流れを推察すれば、徹底して自粛をしていたからこそ不公平さを強く感じてしまっていると考えたほうが自然だろう。少なくとも、職員等の優先接種の是非に対する妥当な回答ではない)で何か申した気分になれるような人間の存在を目にしてしまうと、こういった「妙に真面目な頓珍漢」がかなり対策会議の足を引っ張っているような気もしてくる。あくまで私の想像でしかないけれども。

考えの整頓

考えの整頓

  • 作者:佐藤雅彦
  • 発売日: 2011/11/01
  • メディア: 単行本
 

 

ワクチン接種は二度ウェブを鳴らす

 両親に新型コロナワクチンの接種券が届いた。ニュース等でも報道されている通り、電話予約は回線が混み合っているらしくさっぱり繋がらなかったが、ウェブ予約の方は拍子抜けするほどあっさり繋がってしまい、いくら高齢者優先とはいえ、我が地元民のアナログさ加減を思わぬ形で見せつけられたようで、なんだか素直には喜べない。接種時に両親が「ウェブ予約は美月さんご夫妻だけでした」なんて言われないことを祈る。

 しかし、両親のウェブ予約を手助けしてみて感じたのは、ただでさえアナログな人間の多い地域は、おそらく再三報道されている「ワクチンは二度接種/二回目までの予約をしておくべき」という点を達成できない者が多いのではないかということだ。

 運良く電話予約をすることができた母方の祖母の場合、担当者がしっかりと二回目の接種の予約までを案内してくれたらしいのだけれど、ウェブ予約の場合、一回目の予約が完了しても自動的に二回目の予約手続へと明確に導かれる仕組みにはなっていなかったので、不慣れな者だと戸惑ってしまうことが想像できる。また、「一回目の予約日によっては、二回目の予約日時が表示されない場合もあります」という注意書きもかえって混乱を招く気がして、「きっと実際に一回目の接種を終えた後に予約するのだろう」と勘違いする者も現れそうだ。

 ウェブ予約が完了すると確認のメールが届くのだが(一回目と二回目の予約確認メールが別々に届いた)、両親の予約は順調に二回目までの予約を済ませることができたので、一回目の予約しかしていない場合に、「二回目の予約が完了していません」といった旨のお報せが届くのかどうかはわからない。二回目の予約を失念した者が実際にいて、しかも上記のお報せも届かないのだとしたら、一回目接種後に色々と混乱が生じるであろうことも想像に難くない。そうなると、国民全体へのワクチン接種もさらに遅れてしまいかねない。

 もっとも、私にできることといえば身近な人に注意を促すことくらいで、しかも関わり合いのある人が極端に少なく、このブログも読んでくれている人が存在しているのか怪しいので、相変わらず社会への貢献度がか細い人生を送っている。

 

「脱ぎたければ、まずは着なさい」

 恥ずかしいので誰にも話したことはなかったのだけれど、恥ずかしいから誰にも話さなかったのか、単に話し相手がいなかっただけなのか判然としなくなってきたためブログに記してみるが、私はよく自分が裸になっている夢を見る。

 裸の夢をよく見るというだけだと、まるで私の内に秘められた露出願望の表れのようだが、いくら安田顕が大好きだからといって、理性で抑え込めないほど裸体を晒したくなった経験などないし、それどころか公衆浴場などの裸を晒さなければならない場面も極力避けたいと考えている。嫌だからこそ逆に興奮してしまう、というような背徳的な性分も、少なくとも裸体を晒すという点においては持ち合わせていない。なにより、夢の中の裸の私も興奮や快感などとは無縁の焦りや絶望感しか感じていない。

 「裸の夢」というより、「なんらかの理由によって纏うべき衣類を失った状態になっている夢」と言ったほうが良いと思う。自発的に脱いで喜んでいるストリーキング的な夢は見たことがない。

 具体的に記せば、虐め被害でよく聞く衣類を奪われたり隠されたりした状態、あるいは裸で出歩くことを強要されているような状態。または、着替えの最中に事故や災害等によって仕切りの類が失われるような状態。そして、夢特有のなぜ裸なのかはわからないが、裸で居て良いはずのない場に置かれているような状態。こういった状況の夢を見ては、嫌な汗をかいて飛び起きるのである。

 たしかに、これまでの人生において、思い出したくもない(のに頻繁にフラッシュバックするのが厄介だが)経験は数えきれないほどあるが、幸い裸関連でトラウマになる程の経験はない。なのに、なぜ裸の夢を何度も見てうなされなければならないのだろう。

 「裸の夢」といったワードで検索してみると、夢診断的な検索結果が多くヒットするが、「裸でいるのに自然に振舞っている」というパターンを分析したものがほとんどで、「素の自分を知ってほしいという願望の表れ」だの「自由になりたい気持ちの表れ」と言われても、そりゃあそういう願望もあるにはあるが、私が知りたいのは「裸であることに苦しんでいる夢」の方である。だいたい、裸の夢など見るまでもなく、前述の願望は大抵の者が持っている願望だという気がする。この程度の夢診断で得られる回答を見たところで悩みなど解決するはずもないだろうから、検索結果を深追いする気にもならない。

 とりあえず、あてになりそうもない夢診断よりも、信頼できそうな安眠法を試してみるほうが有益かもしれない。

 

責任はなくても残念ながら関係はある

 ワクチン接種の「特別枠」という流れに至り、ついに辞退を求める声がアスリート個人へ直接届けられるような事態になった。東京五輪開催反対を訴える為の抗議方法としては不適切だと思うが、しかし「アスリート個人は関係がない」という擁護の声にも首肯はできない。大きな権限や責任があるかどうかは別としても、関係は大いにある。複雑な心情を吐露した選手らの言葉は、関係があることを重々理解しているからこそのものだろう。逆に言えば、(一切のコメントもせず、自らのトレーニングのみに集中するならまだしも)この状況下で葛藤や配慮の欠片も感じられない発言をするアスリートがいるのならば、それは充分に批判対象となるはずだ。

 もちろん、アスリート本来の使命は目標に向けた鍛錬と本番での素晴らしいパフォーマンス披露であろうし、その為に選手が集中できる環境を関係者や支援者が整えるのも(その役目や価値観を興味のない者にまで強制しない限りは)スポーツに長年嫌悪感を抱いている私でも理解できる。しかし、残念ながら現在の状況は()内の但し書きに抵触しているだろう。

 スポーツを憎む私が、それでもたとえば池江璃花子選手に対して直接辞退を求めようとしないのは、白血病との闘病を経てようやく復帰した者にそのような声を投げかけるのはさすがに忍びなく感じることと、なにより池江選手がコロナ禍での五輪開催に関して全くの無頓着でいるとも思っていないからであり、決してアスリートが問題と無関係だと考えているからではない。辞退を求める声を受けたことに対する池江選手の言葉に関しても、敢えて意地の悪いことを付記すると、本人が実際にどう考えているかは別として、選手たちへの同情を誘うあまり五輪開催反対派をひとまとめに悪者に仕立ててしまいかねない危うさもあると感じた(追記:この記事は5月8日に下書きしたものだが、翌日の朝になって既に「東京五輪開催希望」の署名運動を立ち上げた者がいることを知った。不適切で厄介な抗議方法は往々にして不適切で厄介な反発を生むのである)。

 そもそも、忍びなくは感じても、「諦めずに努力し続けた」こと自体が免罪符になるとは思っていない。それが免罪符になると考えているのなら、それこそアスリート/スポーツ界の特権意識だと思う。私のスポーツに対する憎悪というのは、スポーツ界への優遇のようにしか感じられない場面に幼い頃から何度も遭遇したことが大きな要因である。今回の東京五輪によってアスリート全体への憎悪が拡がることを懸念する声もあり、もちろんそれが良いことなどとは思わないけれども、スポーツを憎み続けた私がまた敢えて意地悪く恨み節を述べれば、「これまでが優遇され過ぎていたのでは?」とさえ感じてしまうのである。

断絶 (エクス・リブリス)

断絶 (エクス・リブリス)

 

 

ゴールデンウィーク、終わりましたか?

 誰の目にも触れていない可能性もあるのに、毎週日曜と水曜のブログ更新というルールを崩すのが気持ち悪く、最近はある程度の余裕を持たせるため、1週間ほど前に記事を予約投稿している。

 ゆえに、この記事を書いている最中の私には、2021年のゴールデンウィークが何事もなく終わったのかどうかわかっていない。極端なことを言えば、「ゴールデンウィークが終わった」という事実を認識できる人間が存在しているのかどうかさえわからない。この世の終わりが来ていれば、それさえも叶わないのである。

 というわけで、無事にこの駄文を目にすることができた方々は、私に感謝しろとは言いませんが、自身の幸運には感謝しておきましょう。その幸運がいつまで続くかは知らないけれど。

渚にて 人類最後の日 (創元SF文庫)
 

 

『やるならやらねば』というタイトルの番組でも打ち切りになったわけですし。

 YOSAKOIソーランが嫌いなのは、小学校で無理矢理やらされたからというのが第一の理由だが、そもそもあの衣装も踊りもなんだか成人式で暴れる新成人を連想させて、いわば「田舎のヤンキー文化」に思える。厳かでは全くないし、スタイリッシュだとも感じない。やりたい者だけでやっている分には構わないが、あれを教育の場に持ち込みやがった教職員どもは末代まで呪ってやるつもりである。

 北海道の有名な祭りといえば、他に「雪まつり」があり、こちらは少なくともYOSAKOIソーランよりは歴史があるものの、私の育った場所が開催地から遠かったためか、雪像作りが教育の場に持ち込まれたことはない。それどころか、休み時間や放課後に小さな雪だるまを作ったことすらない。

 真冬に外で遊びまわるほどの無邪気さも体力もなかった私の目には入らなかっただけかもしれないが、私が学校という場で雪だるまを目にしたのは高校に入ってからである。別のクラスの暇で元気な女子数名が作ったものらしかったが、暇で元気な割には出来の悪い雪だるまだったと記憶している。彼女たちが後に雪まつりに携わったかどうかは知らない。

 収束しないコロナ禍の影響で、今年のYOSAKOIソーランは秋に延期ということになったようだが、私の長年の憎悪も虚しく強行される気配の東京オリンピックを終えた後、五輪のように鬱陶しいほど重要視されることもないYOSAKOIソーランが本当に開催できるのかどうかは東京五輪の成功以上に疑わしい。

 まあ、私にとっては憎しみの対象でしかないので、コロナが収束しようがしまいが中止になってくれて一向に構わないのだけれど。

 

追記:タイトルはともかく『やるならやらねば』は好きな番組でした。

 

鯉にも恋にも良縁なし

 私の通っていた小学校が閉校してしまったことからもわかる通り、地元では子供の数が激減している。団塊の世代である父が小学生の頃は、一人や二人蒸発したところで気付けないくらい子供で溢れかえっていたようだが、私が小学生の頃には最大でも全校児童は35名ほど。以降は、それより増えることがなかった。

 子供が減ると同時に目にすることが稀になったのが鯉のぼりで、私の世代でも珍しく男ばかりの4兄弟だった蛙川君(仮名)の家も今や兄弟全員立派な大人となり、この時期になると蛙川家の庭先で元気よく泳いでいた鯉のぼりも見かけなくなって久しい。

 私の家にも母方の祖父が買ってくれた、なかなか立派な鯉のぼりがあるのだが、この鯉たちが風を泳いだのは一度きりだった。初めて飾った年に、木製のポールの腐敗が進んでいて、いつ折れてもおかしくないことが判明したからである。父の代から庭にそびえていたものだったので仕方ないが、結局、立派な鯉たちはすぐに立派な箱にしまわれ、今も私の部屋の押し入れの中で眠っている。売ればそこそこの値段になるのかもしれないが、さすがに今は亡き祖父の思いを踏みにじるほど冷酷な人間にもなれない。

 そういえば、通っていた幼稚園でも鯉のぼりのポールが壊れ、私の短い在籍期間に鯉の泳ぐ姿を見ることはできなかった。まさか、私がたくましく育てなかった原因が鯉のぼりの泳ぐ期間があまりに短かったからだとは思いたくないが、あまり鯉たちと良縁に恵まれなかったのは事実である。

日本人形玩具辞典

日本人形玩具辞典

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