ムショの糸

 高校生の頃、地元の小さな映画館で財布を拾ったことがある。どうやら、直前までの上映を鑑賞していた老人のものらしく、別にこれから観ようとしていた作品が『刑務所の中』だったからではないが、魔が差すこともなく、すぐに受付に届けておいた。

 映画館の経営者でもあったはずの受付の男性は「あの爺さんだな」と言って急いで追いかけていったが、私は映画を観逃すほうが嫌だったので、すぐに席に戻った。上映終了後に財布が持主の手に渡ったかどうか聞かされることもなく、後に地元新聞の「読者の声」で“親切な高校生が届けてくださったらしく……”などと感謝されることもなく、20年近く経った今なお、結局どうなったのかは分かっていない。映画館自体も、コロナ禍を経験することすらなく、10年以上前に閉館してしまった。

 さて、当時の私の判断は正しかったのだろうか。確認しようもないが、ひょっとして受付の男性がネコババしてしまったのではないか、持主を発見できず交番に届けたものの私の存在をすっとばして所有権を合法的に獲得してしまったのではないか、しかし悪銭身につかずで経済を潤すような使い方すらできなかったのではないか、それならいっそ私が悪人になっておいたほうが結果的にはマシだったなんて可能性もなくはないのではない……などと、なんだか魔が差してネコババするよりも罪深い考えが時折頭を乱走する。こんな奴に当時魔が差さなかったのは奇跡かなにかだろうかなどとも考えはじめ、今度は段々と自虐的思考に憑りつかれたりもする。

 まあ、地獄で蜘蛛の糸の一本くらいは垂らしてもらえる可能性を生じさせはしたのかもしれないが、あの日の行動は報われるどころか、ちょっとした悩み事として引っ掛かり続けているのは確かである。

 

深夜のラブホで「見えない二人」

 幼少期に何度も訪れたり、近くを通ったりした馴染み深い場所のうち、数か所が現在は心霊スポットとなっている。比較的、世間に対しての恨みつらみが激しい子供だった気はするが、だからといって私が原因ではないはずだ。30代も後半に差し掛かれば、幼少期の想い出の場所が廃墟と化していることも珍しくなくなるということなのだろうが、はっきりと「心霊スポット」として紹介されてしまうほど荒れ果てなくとも良かろうに。

 しかし、畑や森林が大部分を占める「大空と大地の中で」的な僻地に生まれ育ったため、そういった土地に点在する何かしらの施設等が潰れてしまうと、すぐに人ならざる存在を感じさせてしまうようなタイプの廃墟と化すのも無理はない。あらためて調べてみると、なかには廃墟となる前から怪奇スポット/危険スポットとして知られていた場所さえ存在していた。

 そのうちのひとつが、その存在意義ゆえに人里離れた場所に建てられていることも多かった田舎のラブホテルである。位置関係の問題から、様々な目的地までの道のりとして、時には小学校行事でのバス移動でも近くを通ることとなり、何度もそのいかにもな外観を目にしていたのだが、どうやら営業していた時代(すでに子供の目には、潰れて廃墟化した遊園地にしか見えなかった)から、「斧を持った管理人が追いかけて来る」といった都市伝説的怪談が一部で囁かれていたらしい。ちなみに、小学校低学年の頃、『悪魔の沼』を初めて観た時、このラブホテルのことが脳裏に浮かんだ。

 心霊スポット/怪奇スポットとなるような場所は、廃墟化する前から蠱惑的ないかがわしさを感じさせる場所だったことも少なくないだろう。件のラブホテルも、おそらく私以外の多くの者が、幼少期に何かしら根拠もなく、そういった匂いを嗅ぎとっていたと思われる。そんな子供たちが自分たちだけで好きに行動できるまでに成長した時、肝試し的な悪い遊びに興じようとすれば、必然的に浮かび上がってくるのが、件のラブホテルのような場所なのだろう。少なくとも、「子供たちの訝しげな視線によって、よくないものたちが集まった」といったようなオカルティックな考え方よりは納得できる。

 いずれにせよ、得体の知れない存在も怖いが、反社会的な者がたむろしているのも怖いし、なにより不快害虫が大量に蠢いているであろうことを考えると、私は大金を積まれても検証しに行く気にはならない。

 

あの時はまだ目覚まし時計は歌っていた

 投票率を上げるための様々な取り組みがニュースで報じられているのを見たが、つい先日、長年地元の投票所として活用されている地域会館の傍に住んでいる知人が「会館が必要もなさそうな改装工事を行っていて、投票日までに終わるかどうか心配」と言っているのを聞いた。どの時間に足を運んでも密になりそうもない過疎地らしいので、いつまで投票所としての役目を任せてもらえるのかも定かではないが、なんとも間の悪いタイミングでの改装工事である。

 「ここが投票所として活用され続けるのを死守します!」と公約に掲げる候補者がいれば、知人の住む地域近辺の投票率は上がるかもしれないが、もちろん、そのようなピンポイントすぎる政策に力を入れる者はおらず、今のところ、知人から工事が終了したという報告もない。まあ、私にはあまり関係のないことだが。

 選挙権を得て以降、私が利用している投票所も、負けず劣らず密になりにくい過疎地に存在しているが、幸いなことに改装の予定もなければ崩壊している様子もなく、本日も急な病気や怪我などに見舞われさえしなければ、権利を行使しに向かうつもりである。私のような者にも、一応、権利だけは存在している。目を向けてもらえるかどうかは知らないが。

 ちなみに、私自身の交友関係は非常に狭いため、私個人宛てに特定の候補者や政党への投票をお願いしてくるような電話はかかってこないが、実家の固定電話となると、数例の選挙運動の対象となっているらしい。運悪く私が出てしまった場合は、私の中での該当候補者/政党への印象が一気に悪化する。電話でお願いすれば可能性が上がると考えている時点で時代に適応できているとは思えなくなるのだが、いつか「今ここでお願いすれば投票してもらえるとお考えなのですか?」と電話口で問うてみたいものの、実行する勇気は持てていない。

夏の十字架(CD)

夏の十字架(CD)

Amazon

 

百億の昼と千億のチピチピ天国な子供たち

 戸籍上は存在していないが何らかの理由(『誰も知らない』的状況下の子供たちが、宝くじが大当たりした直後の親を殺害するとか)で金だけは有り余っている子供たちが、たびたび幽霊のように表の世界に現れて豪遊し続ける物語を書いてみたいのだけれど、今のところは書き上げる自信も才能も体力すらもないので、自信も才能も体力も溢れ出て困っている方がいるのでしたら、ぜひとも書き上げて頂きたいのですが、自信も才能も体力も溢れ出て困っているような方は、このような辺境のブログなど読んでいないと思うので、せめて体力くらいは回復できるよう、おとなしく静養を続けたいと思います。

 

来るべき来そうにない世界

 11月前だというのに冬のように寒い。暑がりの私が寒いと言っているのだから、間違いなく寒いはずである。地元の天気予報も寒いと告げている。

 しかし、繰り返しになるが、まだ11月にもなっていないため、服装を完全な冬物にしてしまう決心もつかない。日用品の買い出しの際には、似たような逡巡の果てなのか、短パンにダウンジャケットという、いびつな格好の男性も目にした。男性機能に関しては、下半身はあまり温めない方が良いと聞いたこともあるので、その辺りを気にしていたのかもしれないが、目を引く姿だったのは否めない。

 かく言う私も、少し厚手のジャケットの下はTシャツ1枚だったりするので、あまり他人のことは言えない。寒いとはいっても、多少動き回れば温まってしまうし、店内は暑かったりもする。

 体に優しいとは決していえない気候のなか、ワクチン接種が進んだためか、在住地での新型コロナ新規感染者は、しばらくゼロの状態が続いている。そろそろ、気を緩めた者による感染再拡大が起きるのではないかとも思うが、治めようと思えば治められるものなのだとも感じられる。もっとも、むしろステイホームが性に合っていた者からすれば、ふたたび夜の酒呑みたちや集団での宴会といった光景があちこちで繰り広げられるのかと思うと、あまり気分の良いものでもない。コロナ対策を念頭においた生活ですら、頑なに拒否する者も存在するなか、コロナ後における「ニューノーマル」など定着してくれる気がほとんどしないのだけれども、わずかな希望くらいは持っていたほうが良いのだろうか。それとも、諦めておいたほうが幸せだろうか。

 

「それより僕と踊りませんか」とは言われたけれど、輪になって踊るとは聞いていない

 小学校6年時の学習発表会で下級生たちが「北の国から」のテーマ曲を合唱していたのだが、これが集団の呻きにしか聞こえない代物で、見守っていたご家族の皆様もさすがにざわついていた。あからさまに日頃の学習が失敗している様を保護者や他学年の児童、教員に晒しつつ、黙々と指揮していた彼らの担任教師は、あの時どんな気分だったのだろう。そもそも指揮が必要とも思えなかったが。

 幸い、普段の下級生たちの学級が深刻なほど嫌な空気に包まれていた様子はなかったし、私自身、その教師が特に嫌いだったわけではない。しかし、個人の人間性の善し悪しと関係なく、しばしば担任教師というものが受け持った生徒たちに無茶をさせたがることに関しては色々と思うところもある。

 『欽ちゃんの仮装大賞』などで、どこかの学校のクラス一同によるパフォーマンスというものを目にするたび、少なくとも一人くらいは居たと思われる参加に反対した者が気の毒で暗い気持ちになる。かく言う、私がそうだったからである。運動会や学芸会のような、学校行事としてオーソドックスなものだけであればまだしも、本来ならば一部の希望者だけが参加すべき地域主催のスポーツ大会や各種イベントに対して、やけに積極的な担任に当たるのは災難でしかない。児童数の少なさゆえに、参加となると怪我や持病でもない限り、半強制的にメンバーに組み込まれてしまうのだが、私はミニバレー大会もYOSAKOIソーランもやりたくなどなかった。面倒くさいのではなく、はっきりと「嫌」だったのだ。

 もちろん、児童たちの大半が反対していれば、私も気に病むことはなかったのだが、やる気になる奴というのもいて、そういう者に限って声が大きかったりするので、妙なイベントに参加させられるくらいなら、日々の宿題の量を増やされた方がましだと考えるような者の意見が通る見込みはないと言ってよかった。

 今回、この場を借りて告白します。小学5年のミニバレー大会前、左手小指の付け根あたりを4針縫う怪我を負い、その理由を「家に届いた荷物の開封においてカッターナイフの扱いをしくじった」と報告しましたが、本当は出場するのが嫌で自ら切り裂いた傷です。痛い思いの甲斐あって不参加の権利を獲得しましたが、今もうっすらと傷痕が残っています。当時の担任Kに対しては、その親族も含めて憎み続けています。それでは。

氷の世界

氷の世界

Amazon

 

荒野に太いホースで水をまく

テレビドラマ版『古見さんは、コミュ症です。』を観ていて、幼稚園の頃、級友と手を繋がされた時、やけに湿っていて気持ち悪いと感じたことを思い出した。おそらく、私の潔癖気味の性分が芽生えた瞬間であり、同時にどうやら自分は他人よりも手が乾燥しているらしいと気づいた瞬間でもある。以降、私の手は乾きつづけ、今では秋口になると念入りに手入れしていても、ちょっと油断するとひび割れて流血し、それこそ潔癖症の人間には見せられないような惨状を呈したりもする。手を洗い過ぎるのも原因のひとつだが、洗わずにいられるような性格であれば苦労はしないし、そうなりたいとも思わない。埃や皮脂で汚れるよりは、出血で汚れていたほうが幾分マシである。

そのうち全身が乾ききって『ウルトラマン』に登場したジャミラのような姿になるかもしれないが、100万度の高熱火炎も吐けるようになったのであれば、復讐したい対象は山ほど存在しているので、どうせこんな姿ではまともな人生など送れないとヤケになり、ジャミラ以上の破壊活動に邁進することだろう。その際は、私に恨まれている方々には存分に恐怖と苦痛を味わってもらいたい。復讐は何も生まないが、たぶん多少はすっきりする。

もっとも、姿がジャミラであれば、私に復讐されたとは気づかないかもしれない。なにやらよくわからないが、恐ろしい怪物に殺されたというだけになってしまう。それは少々悔しい。ジャミラが劇中ですぐにジャミラだと気づかれていたのは不可解だが、たぶん面影がどこかにあったのだろう。仮に私がジャミラ化しても、どこかに面影が残っていることを願いたい。