あのキャベツ野郎

 幼少期の記憶というものは、かなりの割合でいい加減なものが多く、世界を認識する力がまだ充分ではなかった頃の記憶であるうえに、刻一刻と古く遠くなってしまうのだから、いくら経験や知識を積んだとこで「あの日見たおぼろげな光景」が鮮明になることはない。むしろ、謎が深まる可能性もある。

 ただし、映像の世紀である20世紀の終盤に生まれたため、おぼろげな光景がそのまま映像として残っていることも多々あって、そのような場合は確認することもでき、元の記憶との解離ぶりに驚いたりもする。私の場合は、幼少期にテレビでたまたま見たニュース映像などを成長してから偶然再見した時に、よくこのような驚きに見舞われる。

 例を挙げると、1986年に起きたノートルダム寺院での熱気球事故(塔の先端部分に気球が引っ掛かり、宙吊りになった事故。衝撃映像特番などで何度か紹介されている)の映像は、幼い私の記憶では気球が突然破裂するものだったのだが、カッコ内に記した通り、実際の事故は、塔の先端部分に引っかかり空気が抜けて宙吊りになるというものだった。そもそも、熱気球が花火のように突然パチンと四散するように破裂することはないだろうが、今だってどれだけ正しく認識できているのか怪しい物理の世界を3~4歳の幼児が理解できるはずもなく、しぼむ気球が破裂したように見え、そのまま「破裂した気球の映像」という記憶として脳に刻まれたのだろう。

 このように、後に映像を再見できれば、おぼろげな記憶を鮮明にすることは可能である。しかし、映像は残っているはずなのだが、それを発見できないとなると、確認しようもない個人的体験とは別の、諦めきれないもどかしさが募る。この年の瀬に、これといったきかけもなく蘇った「キャベツ丼の記憶」がそれである。

 たしか、大食い自慢の一般人が所謂デカ盛り的メニューに挑戦する内容の番組だったと思う。いや、それがメインの番組ではなく、たぶん『どさんこワイド』のようなローカル帯番組の特別コーナーだったような気もする。とにかく、そのような内容がテレビで放送されていて、そのうちの一人がチャレンジしていたのが「キャベツ丼」、否、「キャベツ丼」としか形容できない料理だった。いかんせん、たまたま目に入っていただけの番組なので、今になって脳味噌の奥から引き出せる情報は少なく、正確なメニュー名など覚えていないのだが、丼飯の上に厚めに切ったキャベツが五重塔のようにこれでもかと乗せられているような料理である。少なくとも、私の記憶の中ではそのような姿をしている。

 しかし、繰り返しになるが、幼少期の記憶というのは曖昧なもので、はたしてあの料理が本当に「キャベツ丼」と呼べるべきものだったのかは定かでない。ひょっとしたら、幼児期の私の目にたまたまキャベツのように映ったでかい天丼かなにかだったのかもしれない。だが、放送局も番組名も紹介された店の名前もわからないので、確認のしようがない。別に食ってみたいわけでもなく、知らずに命を終えても何の問題もないはずだが、なんとなく気になってはいるのである。もし、自信を持って「それは、きっとあの店のあの料理のことだ」と言い切れる方がいらっしゃるのでしたら、是非お知らせ願います。

 

沈むヘドロと4人の映画監督

 2021年はゴジラシリーズの異色作『ゴジラ対ヘドラ』の公開から50年という節目であり、「ゴジラ・フェス 2021」の完全新作短編として中川和博監督による『ゴジラVSヘドラ』も公開された。

 使用されたゴジラヘドラのスーツは『ゴジラ FINAL WARS』で使われたものだが、私はもっとグロテスクな蠱惑性をヘドラには持っていてほしいと考えるので、その点は少々不満だったりもする。もし、ネットの自主制作ではなく、公式長編作品としての『シン・ヘドラ』の制作が決定したならば、是非とも映画のアブジェクション史に壮大な爪痕を残すような姿で驚かせてほしい(『シン・ゴジラヘドラ』ではなく、あくまで『シン・ヘドラ』を期待したい。ゴジラに頼ることのできない世界の人間たちがヘドラに翻弄される姿が見たい)。

 ところで、『シン・ゴジラ』に登場した「役に立たなかった学者トリオ」を演じたのは、犬童一心緒方明原一男という映画監督トリオ(監督たちのことを知らなそうな観客の多い地元の映画館でも、登場した瞬間に笑いが起きていたのが印象的)だったが、『シン・ヘドラ』では、『ゴジラ対ヘドラ』で麻雀に興じるおじさんたちがヘドロ(ヘドラの残骸)に埋まって死んでしまうシーンを映画監督たちに演じてほしい。たしか、4人いらっしゃったはずなので、映画監督カルテットが必要になる。「ヘドロに埋死する映画監督」という場面の意味を批評的に演じてくれそうな方が良さそうだ(評価すべき点の見当たらないような映画監督を配役するのは直球すぎるし、そもそも引き受けてくれないだろう)。個人的には、実際にお会いした際の印象も踏まえ、安藤尋井土紀州松江哲明山下敦弘の4名にお願いしたい(安藤さんだけは、役者としての姿を拝見したことがないけれども、「小芝居が上手い」という某氏の評価を聞いたことがある)。

 まあ、映画制作の道を諦めた者の戯言でしかないけれども、空想するのは自由なので……。


www.youtube.com


www.youtube.com

 

 

一方通行の年賀状を雪にまみれて配達する郵便局員に思いを馳せつつ

 大谷翔平正力松太郎賞を贈るのは、別れた相手に未練がましく連絡をとるようなものではないのかと知人が言うので、私も日本野球嫌いだがこいつも相当だなと、久しぶりに同類を見つけた時の安心感を得た。

 さて、そんな私と知人が嫌悪する日本プロ野球だが、以前にも述べたように、BIG BOSS新庄への良い評判を目にするたび、私のような人間が嫌っていたこれまでの空気を払拭してくれるのではないかという期待と、それゆえに再び盛り上がってしまった日本野球によって、かつて散々泣かされてきたテレビ中継の延長などの被害がまた増えてしまうのではないかという不安が同時に押し寄せてくる。

 日本野球に対して感じていた「厭な空気」というのは、日本社会全体にも当てはまる部分が多く、それを野球界だけでも払拭してくれるというのならば、それは歓迎すべきことであるし、私のような者も少し生き易くなるかもしれないという希望も持つことは可能である。だが、そもそも野球、というよりスポーツ中継全般が好きではなく、多少興味を持てるようになったとしても、他の様々な文化と比べて自分にとって重要になるかといえば、そうはならないのである。

 新庄まで嫌いになってしまうほど、プロ野球の話題が多方面に過剰侵食してくるようなことになった場合、それは新庄が悪いというより、プロ野球ばかりを持ち上げる連中が悪いのだろうけれど、そこで冷静でいられる自信があるかと問われれば、胸を張って宣言できるわけでもなく、人の道を今以上に外れてしまう可能性のほうが、新庄によるプロ野球改革によって私が生き易くなる可能性よりも高いような気がしてきて、なんだか2021年も「終わり良ければすべて良し」とは言えそうにない。

 

予知夢というわけでもなく

 今年の1月4日からTwitterで毎朝6時35分に良く言えば謎めいた、悪く言えば前衛ぶったわけのわからん文章を投稿し続けているのだが、これは過去に見た夢の中から実際の体験と関連が強そうなものを選び、現実と混ぜこぜにした状態の半自分史的なもので、今のところ特に反響はないが、12月28日まで続けるつもりである。

 褒められも貶されもしないことを、なにゆえに続けるのかと問われても、なんとなく投稿時間まで決めて始めてしまったことを急にやめるのは気持ちが悪いという、自分の中の問題でしかない理由を答えるしかない。自分で勝手に決めたルールを破るのが気持ち悪く、不測の事態にも備えて1週間分を先に予約投稿しているのだから、つくづく厄介な性格だと自分でも思う。

 さて、その1週間前に予約投稿していた内容(そもそも、その内容も過去に見た夢をベースにしている)が、偶然にもケンタッキー州での竜巻被害と被ってしまい、なんだか不謹慎な輩がふざけているようにも思われる気もするが、先述の性分ゆえに、とりあえずそのまま投稿されている。不幸中の幸いと言うべきか、もともと反響がないため、批判の声も届いてはいないのだが、念の為、ここで実際の災害とは無関係であることを表明させていただきます。炎上も煽りも釣りも、狙ってできるほどの無神経な度胸は持ち合わせておりません。

 

冷たいものは沁みないが、辛いものは沁みる

 歯磨きのし過ぎなのか、唇の内側が荒れてしみる。腕も肩も痛い。

 うがいのし過ぎなのか、喉も痛い。

 手も洗い過ぎなのか、ひび割れて痛痒い。

 何事もやりすぎは良くないわけで、眠り過ぎると頭痛がするなんて話も聞くが、これだけ色々やり過ぎて痛い目をみているのに、眠り過ぎによる苦痛の経験はほぼない。そもそも、あまり眠れない。どうせ過ぎるのなら、眠り過ぎてしまいたいのに。

 2021年も、残すところ半月ほどであるが、私の人生の中でも、なかなかのろくでもない年だった気がする。残りわずかの間に「終わり良ければ全て良し」と言わせてくれるような幸が舞い込むことを期待したいが、どうせ舞い込みなどしないのだから、ショックを軽減させるためにも、やはり期待などしないでおこう。

 

騒々しい創造

 「お隣さん」と言っても街に住む人からすれば「隣」と呼ぶには離れ過ぎていると感じるであろう、しかし、この大平原においては紛れもなく「お隣さん」であるお隣さんが、新しい家を建てている。お隣さんとは、別に何かトラブルを抱えているわけでもなく、いたって良好な関係であり、そのような間柄の相手が家を新築することを恨んでしまうほど、さすがの私のすさんではいない。間柄が良好ではないのだったら別だが。

 さて、お隣さんが家を新しくすること自体は良いのだが、どうにも建築音が気になってしまう。近所で建設作業が行われるという経験が豊富なわけではないけれど、お隣さん自身の意見も踏まえたうえで述べさせてもらうと、作業が少々荒っぽいような気がする。たぶん、別の業者ならば、ここまで音は響いてこないのではなかろうか。

 破壊も創造も結局は作業であり、その副産物ともいえる作業音は、基本的には騒音でしかない。ノイズミュージックは好きだが、工事現場の音が好きなわけではないので、何らかのカタルシスを得ることもできない。自分の新居でもないので、端的に「うるさい」としか思えないのである。

 完成までどれほどの時間がかかるのか分からないが、別のバカが乗り回す下品な車のエンジン音とも相俟って、可能ならばこちらが倍以上の音量で山崎マゾのように叫びたい衝動にも駆られるのだが、業者が荒っぽい、もっと言えば「雑」であることに薄々気づいているらしいお隣さんの不安を思えば、音以外の被害を受けることのない私が怒りをぶちまけるのも申し訳ない。住宅街からすれば「お隣さん」とは呼べないほど離れているので、仮に新居が崩壊したところで、私の家に被害が及ぶことはないのである。時期も時期なので、古くなった我が家の大掃除を念入りにおこなって気を紛らわせておこう。

 

季節は意外と長くまごつく

 布団を新調したのだが、私には保温効果が高すぎるようで、氷点下が標準となりつつある時期だというのに、暑さを感じて目を覚ましてしまった。かといって、布団から抜け出して眠れるような季節ではない。暑がりだからといって、寒さを感じないわけではないのだ。

 巷には様々な便利グッズが溢れ、個人的にも年齢を重ね、それなりに知識も増えているはずなのに、いまだ季節の変わり目における気候の落ち着きのなさに身体はなかなかついていけないままであるし、「季節の変わり目は風邪をひきやすい」という通説を完全否定できる日も遠そうである。寝不足とも相俟って、すでに体調はお世辞にもよろしい状態とは言えない。

 我が居住地は、僻地としての利点が活かされているのか、新型コロナウイルスの脅威に関しては、ここしばらく、かなりの落ち着きを見せている。しかし、コロナ以外の由来が濃厚なちょっとした体調不良では、まだまだ病院で診てもらおうという気にはなりづらい。病院に行くことで、かえってコロナをもらってきてしまうのではないかという不安が、理屈ではない状態で拭えずにいる。土壇場での悪運の強さなら何度か経験があるものの、日常において幸運が舞い込み易い星の下に生まれてきていないことは確かな気がするのだ。

 いっそ、早くどれだけ防寒対策をしても過剰とならないほど寒さが幅を利かせる季節になってくれたほうが、健康管理はし易いのである。衣・食・住の対策に難儀する時期は、もう少し続いてしまうだろう。