要するに酒と野球に甘いのが、日本人の国民性ということでしょうか。

 井上ひさしの『ナイン』は、教科書に載っているのを読んだだけなのだが、教科書に掲載されている分だけでは、良さが分からないどころか、腹立たしいだけの作品だった。

 『ナイン』は四ッ谷駅前の新道商店街と新道少年野球団のエピソード(東京オリンピックの時代とその後(1981年))が描かれている短編で、少年野球団のキャプテンだった正太郎が、現在は友人たちから寸借詐欺を繰り返していているのだが、友人たちは皆、彼をかばう。かばう理由は(うろ覚えだが)、少年野球団当時、猛暑での試合で正太郎が壁となり、メンバーのために日陰を作っていたことが挙げられ、ナインの信頼関係が現在も続いているからだ、というような締めだった。

 これだけで感動する人は感動するらしいのだが、私にはそれがさっぱり理解できない。野球嫌いということも関係はしているのだろうけど、少年野球団時代に日陰を作ってくれたことだけで(たしかに、これは美談かもしれないけど)、現代の寸借詐欺が許されてしまう話を美談として良いとは決して思わない。バラエティ番組の悪影響を指摘する人は多いが、私は『ナイン』の方がよっぽど悪影響を与えていると思う(また、バラエティ番組はけしからん、とか言ってるおっさん共に限って、『ナイン』に涙していそうだ)。

 はっきり言って、この短編のせいで井上ひさしへの印象が凄く悪くなっており、その後に読んだものも「『ナイン』を書いた奴のもの」という意識が抜けなかった(そのくらい『ナイン』は腹立たしかった)。

 そんなこんなで、後に『中央公論』の追悼文に書かれていたエピソード(『吉里吉里人』の連載二回目の締め切りになっても原稿があがらないので、編集者が電話をしたら、「困るのは作家のほうだ。編集者は困っても周囲が助けてくれるがこっちは一人だ」などと怒鳴った)を読んで、「ああ、やっぱり誉められた人間じゃなかったんだなあ」と思った。

 幸いと言うべきか、今のところ『ナイン』にとても感動した、という人には出会っておらず(知り合いにいるのかもしれないが、そういう話はしていない)、『ナイン』の内容をめぐってケンカをしたことはないのだが、もし『ナイン』ファンがいるのなら、その良さを私にも分かるように説明してほしい。