『元・引きこもりの13日の金曜日VS悪魔のいけにえ 〜語り部 死神〜』第1話

 映画学校同期の真子晃君作のラジオドラマ『13日の金曜日VS引きこもり』の後日談的小説。勿論、真子君に許可は得ているものの、「正史」ではなく「偽史」。後日談というよりは「ifもの」と考えていただきたい。
 それから、以前告知したあらすじとも、少々異なっている。
 思ったより暗くなり、思ったより長くもなった(ゆえに、何部かに分ける)。エロ的な意味ではないが、成人指定は食らいそうな内容だ。更に言い訳しておくが、あくまで「ifもの」であり、原作に対して喧嘩を売ろうとかいう思惑はない。私は、喧嘩を売るつもりなら、無断で掲載して後で知らせるタイプである。




『元・引きこもりの13日の金曜日VS悪魔のいけにえ語り部 死神〜』第1話
           
              (原案:真子晃『13日の金曜日VS引きこもり』)


 私は死神である。
 かつての名前は城戸良也だったが、今はただの「死神」である。正確には「死神見習い」である。
 死神としての名前がないのも、見習いだからである。死神となってかなりの日が経つのに見習いなのは、色々と理由があるのだが、それは後に語る。とりあえず、決して落ちこぼれというわけではない、とは言っておく。
 かつての名前が「城戸良也」という、珍しいか、ありふれているかは別として、ひどく人間じみた名前であるのは、単純にかつては人間だったからである。死神という存在は、基本的に一部の死んだ人間がなるものである。私は、その「一部」に選ばれたわけだ。選んだ存在がなんなのかは私も知らないが、なぜ自分が選ばれたのかは後に語る。

 死神は何の為に存在するか?
 多くの者が想像する通り、人間に死をもたらす為である。
 ただし、寿命を操ることはできない。あらかじめ決まっているのか、なにか別の存在が操っているのかは知らないが、我々死神は、人の寿命そのものに手を出すことはできない。正確に言えば、ミスによって短くしてしまうことはあっても、伸ばすことはできない。
 ならば、死神のもたらす「死」とは何なのか?
 それは「死に方」である。
 死神は、寿命を迎える人間の「死に方」を決める。いわば、「死の演出家」だ。どのように演出するかは、その死神次第であり、これといった決まりはない。
 あくまで人間界基準でいうところの「善良な」死神なら、真面目に暮らしてきた人間の死には、家族や友人に看取られながら眠るように死んでゆく、といったような演出を施す。聞くところによると、若くして難病に侵されて死ぬ者の中には、こういった「善良な死神」によって死を演出された者が少なくないらしい。確かに、基本的に「老衰」などあり得ない若者にとって、病気そのものは辛くとも、事故死や殺人などと比べ、病死というのは「家族や友人に看取られながら眠るように死んでゆく」には適したシナリオだろう。
 勿論、それまでの行いなど関係なく、惨たらしい死を演出する死神も多い。私と同じ頃に死神となったある男は、最初の仕事において、(これもあくまで人間界基準だが)親思いの真面目で善良な女子高生の死を担当したのだが、「電車が到着する直前のホームに転落し、はい上がろうとしたところに電車が到着。ホームと車体の間に挟まれながらも、彼女の身体を切り苛んだ車体そのものが止血帯となり、しばらく絶命せずに苦しみ続ける。車体を動かすと、血や内臓が噴出し、絶命する」という演出を施した。16歳の少女の人生の幕引きとしては、さすがの私でも惨いと感じなくはない。ちなみに、その死神がこのような演出を施した理由は、いくら人間が残酷な現実を子供たちから隠そうとしても、それはいつだって人間たちの傍に潜んでいるということを知らしめる為らしい。少女の「事故」は、小さな子供たちも多い時間帯に起きているのだが、それも彼の演出だったのだろう。

 ここで、我々死神がどのようにして人の死を演出するのか、そして、どの段階で「見習い」を終えるのかを説明しておこう。
 特にややこしい話ではない。裏の方では、色々とややこしいあれこれが渦巻いているのかもしれないが、我々の仕事は演出することだけなので、そのあれこれについて知る必要はないし、知ろうとも思わない。
 見習い期間は延々と寿命の近づいた者を見分ける訓練に当てられる。特に教科書めいたものもなく、幽霊のようにさまよっていれば、自然に見分けられるようになる。それは、どんな死神でも同じである。
 ただし、死神としての初仕事、つまり初演出作品となる人間は、それぞれの死神にあらかじめ決められている。その人間の寿命が近づくまでは、ひたすら「見習い期間」なのだ。何十年も「見習い死神」としてさまよい続ける者もいれば、1週間と経たぬうちに初演出を任されることもある。あまり「見習い期間」が長くなかった死神は、寿命の読み間違えをすることも多いが、読み間違えたところで特にペナルティはない。人間だった頃のように「不慮の事故」「凡ミス」とでも言っておこう。
 ちなみに、初演出作品となる人間を決める「大きな存在」に関するあれこれは知らない。これもまた、知る必要はない。

 私は死神になって2年半経つ。人間で言えば死後2年半である。
 2年半経って、いまだ見習いなのは、先述の説明のように、私が演出することになっている人間の寿命がまだ残っているからである。
 2年半に及ぶ「見習い期間」については、特に語ることもない。代わりに、私が死んだ日のことを語ろう。

 私が殺されたのは2年前の9月13日。この日は金曜日だった。
 生前の私の趣味は夜の散歩だった。人気のない夜道をあてなく歩くのが、人間だった頃の私は何故か好きだった。あてなく歩きすぎ、人気どころか建物もまばらな場所に迷い込むことも少なくなかった。あの日も、そうだった。
 どのくらいの規模のものを竹林と呼ぶのかは知らないが、辛うじてそう呼べそうな竹林が見えてきた。勿論、竹林そのものに入ったわけではない。その傍らの道であり、そういう事もその日が初めてというわけではなかった。
 初めてだったのは、聞こえてきた音だ。いや、その音自体に聞き覚えはあり、ゆえに人間だったその頃の私は「伐採だろうか」と考えたのだが、竹に対してあの禍々しい「動く刃物」を使う必要があるのだろうかとも思った。実際、竹を切り倒す音は聞こえず、チェーンソーの音だけが近づいてきた。
 チェーンソーの男は、ホッケーマスクを被っていた。マスクを被っていたので、人間だった頃の私に男女の区別はつかなかっただろうし、そもそもホッケーマスクが確認できたあたりで、人間だった頃の私は既に切り裂かれていた。恐ろしく、気配の薄い男だった。
 私を殺したホッケーマスクが男であるとはっきり分かったのは、死神になってからであるが、切り裂かれている間に感じた雰囲気や、ぼんやり見えた体格から、死に際の私も男だろうとは思っていた。これに関しては、人間だった頃の私の観察眼を褒めてやりたいところである。
 最初の一撃こそ苦しいものだったが、すぐに男は実に的確に私を殺しはじめた。何か訓練でも受けていたのだろう。チェンソーによって人間を最小限の苦しみで、そして最大限に惨い死体に作りかえるのは、そう簡単ではないはずだ。ひょっとしたら、最初の痛みは躊躇というやつだったのかもしれない。その考えは、後にその男を死神として観察し、調べることで、より強固なものとなった。
 死神となってから、その男のことは観察し続けている。なにしろ、私が初めて演出することになっているのは、その男の死なのだ。

 ホッケーマスクの男の名は野呂瀬琢麿という。表向きはDVDショップの店員として働いているが、「暗殺の集団・13日の金曜日の会」という組織に所属する暗殺者であった。
 さすがに、ふざけた名前の組織だと、人間だった頃の私なら思ったであろう。そんなもの存在するはずがないとも考えたはずだ。もっとも、考えるどころか、その組織の存在を知る前に殺されたわけだが。
 しかし、その組織は確かに存在していた。死神となった私が観察し続けていることなど知らずに、野呂瀬琢麿には暗殺の指令が入り、そのたびに彼は暗殺に勤しんだ。
 「暗殺の集団・13日の金曜日の会」は、その名の通り、映画『13日の金曜日』をモチーフとした暗殺集団であった。仕事の際にチェーンソーを使うのも、その為だ(実際に映画でチェーンソーが使われたことはない。それはこの集団も周知の上のようだ。実際のチェーンソーの殺人鬼は、『13日の金曜日』のホッケーマスクの男ではなく、『悪魔のいけにえ』の人皮のマスクを被った大男だ)。暗殺集団であるということは依頼人がいる。つまりは客商売であり、マーケティングも必要となってくる。「13日の金曜日」「チェーンソー」といったアイテムも、マーケティングの一種のようだ。

 野呂瀬琢麿が暗殺者であることが分かったのは、死神になってすぐのことであった。その時点で、私の初演出がこの男となることは決定していたのだが、野呂瀬琢麿の残りの寿命は、人間としては短いものの、待たされる死神の側としてはそれなりの長さがあったため、私は気まぐれに、野呂瀬琢麿に私の暗殺を依頼した人物を調べてみることにした。しかし、依頼者は存在しなかった。
 では、何故人間であった頃の私は野呂瀬琢麿に殺されたのか。
 死神にも「見習い期間」があるように、暗殺者にも「見習い期間」があるらしい。少なくとも、「暗殺の集団・13日の金曜日の会」の暗殺者たちはそうだった。野呂瀬琢麿が私を切り刻んだ際の手際の良さは、この訓練期間の賜物だったのだろう。そして、訓練が終わるとプロになるための試験、つまりは「最初の殺し」を迎える。試験であるため、「依頼された殺し」を任すことはできない。では、どうするのか。なんのことはない、「自由に選べる」のだ。そして、その「自由に選ばれた最初の殺す相手」が、野呂瀬琢麿にとっては、人間だった頃の私だったのだ。
 「自由に選んだ相手」が何故、人間だった頃の私であったのかは、だいたい察しがつく。「13日の金曜日の会」のプロ試験に選ばれる「被害者」は、大半は組織が秘密裏に入手した携帯電話の顧客リストなどから選ばれるのだが、その多くは「通話時間が短い」等、他者との接点が少ない人間である。簡単に言えば、初心者でも殺し易い相手ということだ、たしかに、人間だった頃の私はそう思われても仕方がなかっただろう。死神となった今でも、他の死神とはあまり関わっていない。

 「野呂瀬琢麿。あだ名はたっくん。現在二十歳。幼い頃から抱いていた夢『大ヒットゲームを作って一生遊んでくらしたい』という夢を叶えるべく、東京のゲーム専門学校に通うため高校卒業と同時に上京。しかし、都会の煌びやかな生活、そしてクラスメイトが想像以上に普通の人たちであったため、会話すらまともに出来ず、次第に学校を休みがちに。そんな中、唯一の肉親であった父親が蒸発。多額の借金を残していることも判明。遠い親戚の助けで、どうにか借金は返済するも、自分への援助はそれっきり。当然学費を払えるわけもなく、専門学校を自主退学。故郷に帰りたいも帰る場所がなく、東京で生活を送るためにバイトを始める。しかし、ここでも持ち前のコミュニケーション能力の低さが遺憾なく発揮され、一ヶ月と持たずに自主退職。その後もいくつかのバイトを行うもどれも続かない。そんな日々で蓄積される『人間嫌い』というマグマのような感情。そしてある日、ついに大噴火。以来、可能な限り部屋の外には出ず、生活保護を受け、死んで腐った魚のような目をして、毎日の生活を送っている」

 これは、暗殺者になる直前までの野呂瀬琢麿の人となりを、当時の野呂瀬琢麿自身のブログから要約したものである。野呂瀬琢磨が暗殺者の道に進んだのは、3年前のことなので、当然現在は二十三歳になる。

 野呂瀬琢磨が暗殺者となった理由は、少々込み入っていた。
 どうやら、野呂瀬琢磨自身も、当初は別の暗殺者のプロ試験の「被害者」として選ばれていたらしい。
 組織内で「レディー」と呼ばれている女暗殺者のプロ試験であった。野呂瀬琢磨のような「中途採用」などの例外を除くと、「13日の金曜日の会」では、二十歳の誕生日を迎える前にプロにならなければならず、野呂瀬琢磨暗殺は、レディーにとって最後のチャンスだった。
 しかし、レディーは野呂瀬琢磨を殺すことができなかった。理由は分からない。たとえ、レディーや野呂瀬琢磨自身に訊くことができても、理解はできないだろう。他人の気持ちなど人間でも理解できるはずもないのに、どうして死神の私に理解できよう。そもそも興味がない。
 殺し屋になれない殺し屋は死ぬしかない。それが、組織の掟らしい。ゆえに、レディーは、その後に始末されることになった。レディーの始末は、ガガという、長く見習い時代のレディーとコンビを組んできた暗殺者が担当することになっていたのだが、このガガが、野呂瀬琢磨に何か吹き込んだらしい。おそらく、夢も希望もない状態の野呂瀬琢磨に対し「お前が今からレディーのいる場所に行き、彼女に殺されれば、レディーをプロとして認めてやる」とでも言ったのだろう。長い間、引きこもってゲーム画面の美少女に癒されてきた野呂瀬琢磨である。歪んだヒロイズムにとりつかれて、「彼女を助ける為に」走りだすこともあるだろう、などと考えたのかどうかは知らないが……。
 実際、野呂瀬琢磨は、レディーの前に現れた。そして、「……あなたが生きるなら」と言い、レディーに殺されることを望んだ。しかし、それでもレディーは野呂瀬琢磨を殺せなかった。繰り返すが、この辺りのレディーの気持ちは分からないし、特に興味もない。ところが、そこで野呂瀬琢磨はこう提案した。

 「レディーに代わって、俺が殺し屋になる」
 「一度は消えかけたこの命、好きに使ってもらって構わない。ただし、レディーに殺しはさせない。それだけは約束してほしい」

 提案は受け入れられた。引きこもり生活の長い野呂瀬琢磨の「影の薄さ」も幸いしたらしい。気配を消す訓練が最も厳しいのだが、野呂瀬琢磨は最初からそれをクリアしていた。
 かくして、野呂瀬琢磨とレディーは生き続け、代わりに人間だった頃の私をはじめ、多くの人間が死ぬことになった。


 「暗殺にはうってつけの夜だな」
 遠くで雷の鳴る雨の夜。ホッケーマスクを装着し、チェーンソーを持った野呂瀬琢磨にレディーが語りかけた。
 「ああ」
 「くれぐれも気をつけるんだぞ」
 「ああ、行ってくる」
 
 野呂瀬琢磨は今、生きている。
 かつて人間として生きていた私は今、野呂瀬琢磨に死をもたらそうとしている。 (つづく)