2年前の考えは霧の中

 別のことを調べている最中に、たまたま演出家の小池博史(この人のことは、あまり知らないが)のブログにたどり着いたので、ちょっと読んでみたら、2010年4月9日の日記のコメント欄が、なにやら荒れていた。

 榎本櫻湖という人(調べてみたら、詩人らしい)が、日記での小池氏の言葉に苦言を呈したことがきっかけのようだった。

http://pappakoike.exblog.jp/14130214/

 問題の発言は小池氏が自身の劇団かなにかの面談の感想として綴った「女性が多いせいもあるだろうが、噂や誤解が物事をおかしくしてしまっていることがよくあって」という部分で、それに対し榎本氏が差別的発言ではないかと指摘している。対し、小池氏は経験上のコメントであり心情吐露にすぎないとし、「女性の良さも悪さも、男性の良さも悪さも重々、承知した上で書いているつもりです」と答える。また、「男性の方が社会性が強く、と書いたら女性蔑視、と映るのでしょう。ですが、間違いなく男性の方が社会性は強い」とも書き、そのうえで、物事は常に両面性を持っていて、だからこそひとりひとりと話すことが大事だなどと締める。

 そこで、別の人間のいかにも文化系的な小池氏への賛同コメントが入り、小池氏も「蔑視されたと感じるのは、蔑視する心根から出ているように思う」「人は差があるモノだ。だが、その差は理解しようとすることによってのみ、多少なりとも解決は可能と感じてきました。だから、面談を行っているのです」などとつづける。

 ここまで読んで私は、小池博史という人は主観を強引に一般論めいた結論に結び付けるタイプの人なのかな、と思った。結論だけ抜き出せば納得できるが、何の話から出た結論なのかを考えると、首をひねらざえるを得なくなるとでも言おうか。

 問題は「女性が多いせいもある〜」という発言が、差別的かどうかであって、小池氏が男性の良さ悪さ、女性の良さ悪さを理解しているかどうかはどうでもいいことだし、ひとりひとり差があるものだと考えている人間が、なぜ「女性が、男性が」という話(しかも、かなり俗流学問的な意見)をするのか、という点だと思う。また、副次的な問題として「蔑視されたと感じるのは、蔑視する心根から出ているように思う」という意見の正当性も議論されるべきだったろう。

 榎本氏は、ここまでの小池氏の返答には納得せず、反論コメントを載せていて、だいたい私が思ったことと同じなのだが、「区別が差別に変わる瞬間、というのをお教えいたします。ある人にとってそれが単なる区別であったとしても、そこに悪意がなかったのだとしても、それを耳にした人間の一人でもが不快感を催したのならば、傷ついたのならば、それはその刹那をもって差別となります」という部分は、ちょっと勇みすぎの印象が拭えない。このコメントに対しては小池氏が「こんな話にならないコメントはない。だから、世界から紛争が消えないのです。差異を認めること。その差異が生じている原因を自分なりに納得し、行動すること。これしか世界を良くする方法はない」と返答していて、この点に関しては、どちらかと言えば小池氏の意見に賛同する。

 しかし、小池氏が返答したのは、この部分だけで、他の部分は「理解不能」としか言っていない。個々の差異を重視する人間が、なぜ男女二元論の暴力性を助長させるような自身の発言に対して何の疑問も抱かないのか、そのあたりの方が私には理解不能である。

 とにかく、「女性が多いせいもある〜」という発言が、許容されて良いかどうかを、ちゃんと議論すればよかったと思うのだが、もう2年も前の話なのだから、双方憶えてないかもしれないなあ。まあ、2012年の4月になって、急にこんな話を蒸し返す私こそ、二人にとっては一番理解不能な存在かもしれない。

増殖する眼球にまたがって

増殖する眼球にまたがって

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 「ドキュメンタリー映画表現者の主体性が担保できるので問題の核心に迫ることが可能です」と武重邦夫さんは言っている。否定はしないが、これは表現者の問題意識が正確であればの話である。それは、テレビでもなんでもそうなのだが、もうひとつ大きな問題として「ドキュメンタリー映画表現者の主体性が担保できるので問題の核心に迫ることが可能」という認識は、結構多くの人が持っていて、それゆえに、問題意識が間違っていても、観る側が気づきにくいというのがある。「圧力がかからない/圧力に屈しないドキュメンタリー映画だから、言っていることも正しい」という盲信。理性に欠けた、感覚派の文化人が陥りがちな誤り。下手をすれば「関心がない方がマシだった」という結果にもなりかねない。



 小谷野敦さんのブログで『聖母観音大菩薩』がDVD化されたことを知る。どうやら、石橋蓮司演じるテロリストが反原発派であることが関係しているらしい。そういえばそうだったかもしれない。いずれにしても、たいして面白い映画ではなかったと記憶している。

 まあ、こういった形で、反原発ってものもちゃっかり商売になっているという一例だ。原発を推進/容認するつもりはひとつもないが、反原発脱原発であればなんでもいいという話がおかしいことくらいは頭においておいてほしい。『チェルノブイリ・ハート』なんて、封印しておくべき映画だろう。もっと、ちゃんとした脱原発ものはあるはずなんだが。