三題噺『私が吐いた猫である』

(三題噺/テーマ【大型連休】【オペラ】【雲】 2010年05月07日 00:27投稿)


『私が吐いた猫である』

 私が吐いた猫である。気持ち悪いので名前をつけるつもりはない。
 どうして吐いたか頓と見当がつかぬ。何でも辛気臭いねちねちした自称芸術家たちとの飲み会で酒を強要されひいひい言っていた事だけは記憶している。私はここで始めて本物の腐れ外道且つド阿呆をというものを見た。然もあとで聞くとそれは古株の脚本家という腐れ外道且つド阿呆の中で一番劣悪な種族であったそうだ。この古株の脚本家というのは時々過去の名作映画を乾かしたような脚本を書いたりして才気溢れる若者たちを蔑視して排除して食っているという話である。然し飲み会に誘われた当時は何という考もなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。但彼らの口車に乗せられて俳優科の学生によるオペラ実習用の脚本を任されることになり何だかフワフワした感じがあったばかりである。今になって酔いが醒め落ち着いて考えてみると所謂「魔が差した」というべきものであろう。普通なら断るであろう依頼を受けてしまった時から「妙なこと」が始まっているように思える。第一飲酒によって疲弊しているべき筈の顔がつるつるしている。それに反して猫の方はなんだか酷く元気がない。しかしながら、その姿は何故か「使える」と思わせる。そう思っていると私の頭の中からあれよあれよと猫を加工して売る様々な案が生まれる。これが俗に言うチャンスというものである事は漸くこの頃知った。
 今日から始まる大型連休の間に依頼されたオペラを書かなくてはならないがそんなことをしている暇はない。大型連休は猫製品の開発にあてた。一応脚本も書いてはみたが私が吐いた猫のことで頭がいっぱいであったため、猫が猫を吐き、マトリョーシカのように増え、雲の上に猫帝国が築かれる様を描いた気色悪いオペラが完成した。連休明け、件の脚本を自称芸術家とその卵たち、役者たちに渡し、彼らの顔が引きつっていくのを確認したうえで「もうよそう。勝手にするがいい。脚本などこれきり御免蒙るよ」と、宣言したのは自然の力に任せての事である。然し不可解なことに彼らはこの脚本を気に入り、私はオペラにより深く関わるはめになった。そして、そのストレスから更に猫を吐くことになった。
 猫を吐き続けていると、次第に楽になってくる。気持ち悪いのだか可愛らしいのだか見当がつかない。雲の上に居るのだか、天国へ昇っているのだか、判然しない。どこにどうしていても差支はない。只楽である。否多少は苦痛である。吐いた猫の役立つ部分を切り落としたり、出汁をとって猫ラーメンを作ったりして売りものにする。意外にも高く売れる。私は元手をかけずに働く。働いて金を得る。金は働かなければ得られぬ。しかし、ほんの少しばかりの苦痛と引き替えに吐き出される猫を売れば金が手に入る。金になった猫は当然のように死ぬが仕方ない。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。有難い有難い。