栗原類はサークルクラッシュの夢を見るか?

 テレビタレントの「キャラ」、たとえば、かつてのつるの剛士の「おバカキャラ」や、一言ネタ以降のふかわりょうの「いじられキャラ」的なものは、是非や好みは別として、彼らが一般人と比べて圧倒的な知名度があるから成立していることであって、私たち一般人の「キャラ」というものは、ごく狭い身内の中でしか基本的には成立しない。

 たいして親しくない人や、初対面の人に「俺/私、こういうキャラなんで」的な振る舞いをされても戸惑うばかりだ。

 「高校デビュー」とか「中学デビュー」というのは、周りにそれまでの自分の「キャラ」を知らない人が大多数になるのをきっかけに、自分の「キャラ」を変えようとする行為であって、つまりは周りに自分の「キャラ」を認知している人間が多いほど「キャラ」は変えにくく、少なければ変えやすいということ……いや、私が改めて言う必要もないけど。

 その「キャラ」にもよるが、「あつかましいキャラ」や「いいかげんキャラ」が笑いに変換できる/してもらえるのは、それが認知されている場だけであり、認知されていない人が多いところでは、ただ単にあつかましくていいかげんな嫌な奴である。そういうキャラでいきたいなら、徐々に認知させていったり、嫌われない上手なあつかましさ/いいかげんさで振る舞うしかない。これができないと、いわゆる「空気が読めてない」ということになる。

 うだうだ書いているけど、つまり私は、あつかましい奴といいかげんな奴が大嫌いなのだ。

 『水曜どうでしょう』の藤村ディレクターが、「どうでしょう班は濃い関係」だと述べていた。「どうでしょう」における藤村Dはたいへんあつかましい奴だが、それが笑いになっているのは、どうでしょう班が「濃い」関係であることを、視聴者が理解できているからだろう(たぶん、「どうでしょう」を面白いと思えない人の多くは、彼らの「濃い」関係に慣れていないのかもしれない)。

 キャラの押し売り的行為が、不快に感じられるのは、まだ「身内」になれていない者に対し「俺はこういうキャラでいけるくらい、この場所に溶け込んでいるんだぜ」と見せつけられているような気になるということもあるかもしれない。私は、そう感じることが少なくない。スノビストたちの鼻につく振る舞いのせいで、洋楽人気が落ちて行ったことと似ている気がする。流動性の高いコミュニティにおいて、そういった振る舞いの者が多くいると、タコツボ化につながる。そういう場面に出くわすのは、哀しいものだ。

 栗原類君が最近人気だが(私も好きです)、その理由は、彼が決してコミュニティの破壊因子にならないからかもしれない。

ネガティブですが、なにか?

ネガティブですが、なにか?

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 呟き散らかしたことのまとめ。


 私も『水曜どうでしょう』観てなかったら、「アレ」を「カブ」と呼ぶことなんて知らずにいただろうなあ。知らなきゃいけない事でもないと思うし。興味ない人間にとっては、車種とか車の部品なんて、超マニアックなバンドの名前と同程度のものなんだよなあ。
 こないだ(というか、しょっちゅう言ってるけど)大泉洋さんが猫好きの人は猫嫌いの人がいることを想像できてないって言ってたけど、私はスポーツと車で似たようなことをよく感じる。さまぁ〜ずが言ってた「誰でもマヨネーズかけると思ったら大間違い」にも通じる話。

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 気合いや根性でアレルギーが治ると思っている人は、気合いや根性で青酸カリを飲んでも平気な体をつくってください。
 少なくとも、岡田以蔵より丈夫な体になってから言ってください(たしか毒が効かなかったんだよね。あと『岸和田少年愚連隊』のカオルちゃんは塩酸か何かの臭気を食らっても平気だったとかいうエピソードがあったような)。