七味五悦三会

 チャーリーこと社会学者の鈴木謙介さんは、大晦日に「七味五悦三会」を数えながら一年を振り返ることにしているらしい。

 「七味五悦三会」とは、江戸時代の風習で、除夜の鐘が鳴る間に、その年に食した美味しい料理を七つ、楽しかった出来事を五つ、会えて良かった人を三人挙げることができたら、その年はいい年だったとされる。除夜の鐘は、短くても20分くらいは鳴っているはずなので(107回を12月31日のうちに鳴らし、1回を1月1日に鳴らす、というのを聞いたことがある。そして、つき始める時間を調べたら、どこでも、だいたい23時45分に始まっているので、先述の習わしに従っているとしても、20分はかかることになる)、あまりに悲惨な事が起きていたり、幸せ慣れしていない限りは、七味五悦は割と浮かびそうな気もするのだが、どうだろう(三会ってのは、チト厄介だ。鈴木謙介さんも言っていたけど、その年に会った人が「いい出会い」であったかどうか、大晦日までに判断するのは難しいと思う。実際、私も2012年に会った人の中で、会った当初は「いい出会いかも」と思ったが、1月6日現在は、はっきり「会わなきゃ良かった」と思ってる奴がいるくらいだ)。今更ではあるが、ちょっと考えてみよう。

 七味は、「その年、はじめて食べたもので」という注釈などないので、好物を七種類食していれば、挙げることができるし、たまたま美味かったものもあるだろう。もっとも、私なんかもそうだが、食にこだわりがあまりない場合は、挙げることができないかもしれないし、一人暮らしをしていると、毎日の食事が決まったものになって、美味い・不味い以前に種類が乏しくなっている場合もある。それに、「美味いリンゴ」といった素材そのもの系は、料理とは呼べないから除外されるのかもしれない(この辺り、ちゃんと調べていないので、あとで調べておこうと思う)。
 それでも私は、こだわりが「まったくない」わけでもないし、2012年は、諸事情で一人暮らしをやめ、実家に戻ったこともあり、七味は挙げることができそうだ。
 
 五悦は、どうだろう。
 これは、簡単だ。面白かった本や映画を挙げれば、五は軽く挙げられることがわかる。

 ということは、2012年は、「良い年」だったのか。
 しかし、どれだけ良いことが続いても、12月31日にとんでもない不幸が集中して起きたりしたら、とても良い年とは言えないだろう(起きたわけではないけど)。
 良いことにも、悪いことにもレベルってものがある。レベル1くらいの良いことが毎日のように起きていても、レベル80以上の悪いことが1回でも起きていたら、大抵の人は、それだけで心は折れてしまうだろう。

 なら逆に七つの不味いものと、五つの嫌な事、三人の出会わなきゃ良かったと思う人が挙がるか考えてみる。
 ……すると、嫌な事は次から次に思い出され、会わなきゃ良かったと思う奴も沢山出てくる(名も知らぬ無礼な客とか乱暴なドライバーとかも挙げられるわけだし)。しかし、なかなか七つの不味いものを挙げることはできない。
 私が食に関心が低いせいもあるだろうけど、食に関心が高い人だって、なかなか七つの「不味い」ものには出くわせないのではなかろうか。
 七つの不味いものが挙げられない限りは、悪い年とは言わない、という風習だったら、毎年「良くはないけど、悪くもない年」として大晦日を迎えられるかもしれない。

 ただ、美味いも不味いも、食えるからこそ言えるわけで、食えないほど追いつめられた状態だと「七味五悦三会」どころではない。

 結局、これも余裕のある人間の考えなわけだし、もっと言えば、そのくらいの余裕は全国民に保障されているべきなのだ。ゆえに、片山さつきの「生きるか死ぬかがもらうもの」発言は、今でも腹立たしい。

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

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 私が「昔は良かった系言説」に対して批判的であることは、何度か書いたと思うけど、「昔は良かった」と思うこと自体は、なんら不思議なことではないとも思う。私だって思うのだから。
 ただ、それは、2013年より1993年の方が良いとか、1993年より1973年の方が良いとかっていう話でなく、単純に小さな子供だった時の方が、不安が少なかったり、ラクだった人が多いというだけの話だ。小さな子供でなくとも、10代の頃なら、世の流れが良い方に向こうが悪い方に向こうが、理解することくらいはできたはずで、取り残される感覚は持たずに済む可能性は高いと思う。今年、私は27になるけど、結構取り残されてる感があるもの(いまだに、絵文字ってやつが使えないし、使われてもほぼ理解できない…)。