胡蝶はトイレの夢を見るか?

「夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか」

 荘子の有名な説話「胡蝶の夢」であるが、SFやファンタジーでも手を変え品を変え、色々と利用されている(というより、「胡蝶の夢」が、いわゆる「夢オチ」のひとつと考えた方がいいのか。ただ、「胡蝶の夢」を意識した物語は、単なる「夢オチ」ではなくメタフィクション的構造を持っていることが多い)。

 個人的に好きなものを挙げれば、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『ウルトラマンマックス』の第22話「胡蝶の夢」だろうか。『ドラゴンクエスト幻の大地』も似たような話だ。それからリチャード・リンクレイターの『ウェイキング・ライフ』におけるベッドの中の男と女の会話(イーサン・ホークジュリー・デルピー)。

「君が言ったことを考えてた」
「私が言ったこと?」
「“死を目前にした老女の視点で、自分の人生を観察してる気がする”って」
「ええ、時々そう感じるわ。私の人生は、まるでその老女の回想みたいなの」
「よくわかるよ。ティム・リアリーは死の間際にこう言った。“肉体は死んだけど、脳は生きてる時間が楽しみだ”と。肉体が死んだ後も脳は6〜12分生きるんだ。夢の中での1秒は、目覚めている時より長く感じる(中略)だから、6〜12分間の脳の働きこそ、君の全人生なのかも。君はその“回想する老女”なんだよ」
リチャード・リンクレイター『ウェイキング・ライフ』より)

 他愛のない日常で、突然真面目な顔してこんな話をしたら「こいつ、とうとうおかしくなったか」と思われるだろうけど(基本的に哲学者なんて、普通の人から見たら危ない人たちだ)、私もしょっちゅう、この「胡蝶の夢」的想像にとらわれる。大抵は、ムツカシイ本など読んで、哲学者的な気分を味わいたい時であるが、時折、かなり切実なものとなる。

 子供の頃のおねしょや、ストレス等の要因で稀に起こりえる大人になってからの夜尿症の際、多くの人が「排尿している夢」を見ていたはずだ。恥ずかしながら、私の場合はそうだ。

 そして、おねしょというものからほぼ完全に卒業(こんなものに「卒業」という大げさな表現を用いてよいものかどうかは知らんが)してしばらくしてからの事だが、私は「トイレの夢とおねしょ」というありがちな話と胡蝶の夢的妄想が合体して、排泄行為をするたびに「今、自分が生きていると思っているこの世界は、実は植物人間状態の自分が見ている夢であり、排泄行為をするたびに、家族や看護する人に迷惑をかけているのではないか」という、まあそれはそれでほとんど病気な思考にとらわれるようになった。そのうち発狂するのかもしれない。そうなれば、植物状態ではなくとも、下の世話が誰かに頼らなければならなくなる。

 「おねしょ」と呼ばれるものを卒業してしばらくしてからの「夜尿症」(二次性夜尿症というらしい。一次性は子供の頃からずっと治らず続いてしまっている状態。二次性は、治っていたものが、半年から一年以上後になって再発してしまう状態)の大きな原因の一つは、上記のようにストレスらしい(人間関係、仕事で溜まった疲れなどがストレスを呼び、自律神経に異常をきたして夜尿症を発症する)。

 映画学校二年の撮影実習期間時に二度ほど、危うく夜尿しかけた(トイレの夢を見て、漏らしてしまう直前になんとか目覚めた)のは、プロデューサーという立場になってしまったうえ、実習においてもプライベーとにおいても色々とトラブル続きだったことが原因だったのだろう。

 今も、色々とストレスは抱えている。それに「トイレの夢とおねしょ+胡蝶の夢」な妄想によるストレスも加算されれば、本当に夜尿症になってしまうかもしれない。
 
 今年は寒い。ただでさえトイレも近くなる。夜中にトイレに起きるたび、私は二次性夜尿症の恐怖と、胡蝶の夢的妄想に襲われているのである。

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