理性は制御できない

 峯岸みなみの件については、AKBのファンであった私も、正直引いてしまう。グレーかブラックかで言えばブラックだと思う。

 もちろん、ローカルルールを破ったことについてではなく、あの謝罪と姿(正確には、その様が「公式」として世に放たれたこと)についてだ。もはや、AKB評論家、いや熱狂的AKBヲタと言ったほうが良いような感じの宇野常寛さんさえ『「坊主で謝る」という体育会系的な文化が社会に残っていること自体に批判的』と呟いていた。

 宇野さんは、これまでAKBというシステム(正確に言えば、AKBシステムの「正」の面だと思うが)に日本の未来を明るくする力を見出していたようだし、私もかなりそういった議論を興味深く読んでいた。しかし、今回の件があって、そういった考えに批判的だった人達(たとえば、東浩紀さんや後藤和智さん)から、より批判的な意見が飛んでいるのを、私はツイッターのタイムラインで眺めていた。私自身も色々考え直さなきゃいけないと思わされる。

 ところで、宇野さんの(一部では「弁明」とされた)『自分が理解できない現象があって、それがなんとなく面白くない人が大勢いるのはよく分かる。でも何かあるたびに構造や背景の分析もなしに「きっと不気味な/ダメな/悪しきものがある」というイメージを煽って「わからないけど叩いていいもの」にカテゴライズする知性は本当に醜悪だと思う』『たぶん最初に「これを叩きたい」という目的があって、そこにしたがって事実関係にまで尾ひれをつけて指弾する、なんて人もたくさん見かけた。こんなことしても、その人がスッキリするだけで誰も幸せにならないと思うのだけど』という呟きに関しては、AKBに関してというより(正直、今回のことについては、基本的に私はAKB側を擁護できないので、ほとんどの批判に首肯してしまう)、むしろ宇野さんたちへの批判意見の中に見られるような気がした。つまり「宇野たちが気に入らないから、このAKB問題をダシに今まで以上に叩こう」という空気感だ。

 かいつまんで言えば、AKBという動員システムは、やっぱり優秀だったのだと思う。その緊張感の中から面白いものは確かに生まれていたとも思う。でも、このシステムを良い方向に持って行くための理性がマネジメント側、あるいは一部のファンに欠けていた(もしくは、失われていった)ような気がする。

 ゆえに、これをファンが良しとしてしまうかどうかが、重要だろう。秋元康という人の市場の欲望を読む力は確かなわけで(考えてみれば、AKBに限らず、過剰なまでの努力や根性や「貫き通す姿勢」というものを、たくさんの人が賛美しているのがこの国だ。体罰問題にしたって、体罰は教育的効果があるのか、あったとして程度問題をどうするかという議論の前に、「熱心な指導」や「耐えぬく生徒」といったものを擁護する声が大きかった)、これを多くのファンが良しとしない(売上に繋がらない)方向に持って行けるかどうかが今後の課題なのかも。


以下は、参考までに。

柴那典さんのブログ
http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-534.html

http://www.nicovideo.jp/watch/sm19990632
13/02/02 ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル


 余談だが、栗原類君が、どうやらタロット占いで峯岸みなみが「火遊びする」と予言していたらしい。類君は、美輪明宏丹波哲郎を超えた?

AKB48白熱論争 (幻冬舎新書)

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初音ミクはなぜ世界を変えたのか?

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 「行き過ぎた指導」という言い方がどうも嫌だ。
 「指導」なのか「暴力」なのか、という考察も見受けられるが、私は「指導としての暴力」の方が問題は大きいと思う。更生の余地があるのは、むしろ感情的になって手を挙げてしまった方だと思う(もちろん、何度も繰り返すような奴はバカだが)。
 たしか、これは『化物語』(正確には『化物語』アニメ版DVD/ブルーレイの副音声)で忍野メメが言っていたことだったはずだが、「感情は制御できるが、理性は制御できない」からだ。理性的に殴っている奴は反省などしない。

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 『Q10』を再鑑賞する。やっぱり泣いてしまう。
 しかし、「Q10を愛したように世界を愛せよ」についてだが、愛する存在がなく、むしろ憎むべきものだけが存在していた場合、まったく逆の「憎むべきアイツをつくった世界全体を憎む」という方向に行ってしまいがちになる。

『Q10』DVD-BOX

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