蠱惑的な専門外の意見と当たり前の「つまらない真実」

「 物理も工学も専門ではない作家に原発やエネルギー政策のことを訊いて、何が得られるのだろうという意見がある。だが現代の社会ではこういうときに「小説」という形式で「物語」を作っているひとに社会的意見を聴くことになっている。これについて考えを述べよ。【2000字 一時間】」(伊藤剛さんの呟き)


 正直なところ、考えも何も、そんな現代社会はどうかしてるとしか思えないのだが、ただそれだけを述べたところで、それこそ私も、これを読んでくれている人(いるかどうかわからないけど)も何も得るものはないだろう。

 「小説」という形式だけではなく、どういうわけか、専門家よりも「映画」だったり「音楽」だったり、あるいは「スポーツ」や「企業」の場合もあるが、どうやら大衆が親しみやすい/尊敬し易い分野で実績のある人間の意見の方が尊重され易い面がある。逆に言えば、専門家は親しみづらい/尊敬しづらい対象であると思われているのだろう。

 勿論、意見を述べること自体は否定しない。たとえ、どれほど勉強不足で独りよがりの正義感のみに支えられた意見であろうと、述べてはいけない理由はないと私は考える。しかしながら、専門家軽視では、問題解決は遠のくばかりだ。

 なぜ、専門家が親しみづらい/尊敬しづらいと思われているのかと考えると、まず専門家、特に理系の専門家に対する「冷たい」というイメージが関係しているのではないだろうか。科学者には人間の心がわからないというパブリック・イメージ。福山雅治主演でドラマ化/映画化された東野圭吾の『ガリレオ』シリーズにおいて、主人公である湯川教授は変わり者ではあるが、科学者は決して人嫌いではないと語っていた。しかし、この人気作の主人公が、こう語ることに「面白み」を感じたり、「感動」する人がいるということは、こういったパブリック・イメージの根深さも象徴しているだろう(ちなみに、大枠では理系に入るであろう、医療関係者に対しては、私も偏見に近い漠然とした不信感は多少持っている)。

 これに関しては、では人の心が分かりさえすれば良いのか、ということになる。確かに、感情をないがしろにする専門家も存在する。しかし、だからといって、感情のみに寄り添ってしまうと、どうにもならない現実には対処できなくなる。温かみがあればそれで良いというような欺瞞に対しては、それなりに不信感を持っている人も多いようで、「物語」の面においても、『水戸黄門』的な勧善懲悪や、『金八先生』的な美談、あるいは『踊る大捜査線』的な正義感に対抗するかのように、『リーガル・ハイ』で「正義は金で買える」と断言した堺雅人演じる弁護士・古美門研介であったり、『相棒』の杉下右京が体現するような「冷徹な正義」が登場している(この2作に加え、ドラマ版『鈴木先生』でもメインライターを務めた古沢良太は、徹底して「正義はひとつではない」という世界を描いている)。

 しかし、それでもなお、専門家が軽視される理由は、上記のことに加えて、多くの人が「勉強をしたくない」ないし「考えたくない」と感じているのではないかという疑念を持っている。

 これは、意見を聞く人々だけでなく、意見を求められる「作家」ないし、先に述べたような「親しみやすい分野の有名人」たちにも言える。もちろん、彼らなりに「勉強」はしているのだろう(ツイッター上の他者の意見で見かけたことだが、確かに吉村昭であれば、本当の専門家並みの調査をしたうえで意見を述べたことだろう)。しかし、それらは、彼らにとって都合の良い面での勉強なのかもしれない。映画学校に在籍していた時の、他の学生、あるいは講師のシナリオハンティングやドキュメンタリー制作における調査などを見ていて、この人は決して「物語」を作りにくくなるような面には目を向けたくないのだなと感じる人が何人かいた。「勉強」すると「物語」が作りにくくなるという面は、確かにあると私は考える。

 「物語」の作り易い(彼等にとって魅力的な「物語」)情報だけを「勉強」すると、陰謀論的なデマに陥りやすい傾向があるようだ。『太陽を盗んだ男』(この映画自体は、私は大傑作だと思っている)で知られる長谷川和彦も、911陰謀論を「世界の常識」だと語っていた。
 勉強をしたくない人達と、魅力的、というより蠱惑的と言った方が良いような情報になびき易い人達が結びついてしまっていることが、専門家軽視の状況を作っている要因の一つではないだろうか。




 2000文字だと、私の技量では具体例を書ききれないなあ…。
 いずれ、それこそもっと「勉強」してから、書き直そう。


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