ヒーローの知性はいつだって君をがっかりさせる

 他人が健康になることを一番恐れているのは医者、というのはよく言われるジョークだが、世界が平和になることを一番恐れているのは、ひょっとしたらアーティストやジャーナリストなのかもしれない。

 原発の問題にしても、秘密保護法に関しても、私だって反対の立場なんだが、上記のような人たちに少なからず見られる、口汚いだけの皮肉や罵声や、問題に対しての認識の低さ、思慮の浅さに触れさせられていると、「この人たちを援護するのは逆効果だよなあ」という気分になってしまう。

 考えてみれば、アーティストという人種は、自身の存在意義に悩んでいるような人も少なくないだろうから、こういった「社会の巨悪」みたいなものを大きな声で批判していれば、安心できるのかもしれない。勿論、世の中を良くしようという思いそのものを否定するつもりはないし、世の中には良くなってほしいのだけれど、『リーガルハイ』的に言えば「闘い方を知らない」「闘いとカニ食べ放題ツアーの区別がついていない」ような状況では、反対する者の印象を悪くするばかりで、本気で世の中を良くしようと思っているのか疑問は増すばかり。まあ、本当に「良くしよう」と思っているなら、簡単に「日本オワタ」とか呟いたりはしない。

 そういえば、石破茂氏のテロ発言に関して、「デモがテロなら、選挙活動や右翼の演説もテロだろ」といった発言をする人が結構いて、たしかに私も選挙活動や右翼演説に良い印象なんか持っていないのだが、それを今回の石破氏の発言に対して言ったところで、デモ(特に今回のような激しい声の大きいもの)が「良い方法」であるという理由にはならず、というより自ら忌まわしきものと似たようなものだと証明しているようなものであり、結局、小学生のバカな悪ガキがよく言う「俺だけがやってるわけじゃない」というレベルの言い訳にしか思えなくなってくる。

 どうも残念なタイプの左寄りな人(小谷野敦さん風に言えば「なんとなく、リベラル」な人だろうか。勿論、ちゃんとした人だって沢山いるのだが、残念なことに、右も左も残念な感じの人の方が目立つため、世の中も残念な方向に流れていくのが、とても残念)にとって、石破氏という存在は、とにかく巨悪であってもらわなければならないようで、結構前に話題になった「戦争に行かなければ死刑」という発言も最近またツイッター等でリツイートされてくるのだが、よく調べてみたら、どうやら「自衛隊に入隊した者が出動命令に背いた場合の刑を重くした方が良い」という発言だったらしく、見出し(?)とは、かなり意味合いが異なってくる。なんだか、とっくにデマだと分かった話が何度も流れてきた震災後の状況と似ている。

 ツイッターなんかを眺めながら、こんなことを思っていると、ふと日本のヒーロー像というものについても考えてしまう。

 どうにも 右も左も英雄視される人間というのは、知性的とは言い難く、創作物においても知性あるヒーローは往々にしてダークヒーローと呼ばれたりする。杉下右京をヒーローと呼ぶ人は少ない。基本姿勢がどうあれ、ヒーローというのは、どうやら熱血で行動的であればそれで良いという風潮が根強いらしい。

 『ドラゴンボール』でも、悟空の言葉づかいは荒く、フリーザのような敵の言葉づかいは丁寧で、これは悪役の恐怖感の演出なのだが、問題は「共感できるヒーロー像」を描こうとすると、知的な雰囲気が損なわれやすいことで、なんだか「頭の良い人間は悪い人間」という擦り込みみたいだ。いや、擦り込みというより、やっぱり全体的にそういう風潮がまだあるのかもしれない。

 信念を貫くだの、ぶれないだのといった言葉が、それだけで美しい尊いものとして語られるような風潮にも通じる話だと思う。本人が良いことだと思っていても、間違った方法なら貫かれたら困るのだ。「原発はいらない→だから、爆弾を仕掛けて壊してやろう」なんてことをされたら被害が拡大するだけなわけで、勿論これは極端な話ではあるけれど、おそろしいものだからこそ正当な手順でなくしていかなければいけないのは変わらない。仕組みをしっかり理解していないものを、とにかくすぐに止めろと言える神経の方が分からない。

 親戚に、たとえばドアの鍵が壊れたら、やみくもに勝手な判断で叩いたり分解したりして、結局すぐに鍵屋を呼んだ場合よりも被害状況も修理費もかさんで大損する、といったことを何度も繰り返している人がいるのだが、少なくないアーティストと呼ばれる方々の振る舞いを見ていると、なんだかこの親戚の姿と被って見える。ねえ、ディミトリ、冷静になろうよ。

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