どうすりゃ「気にしない」ことができるのかが分からないわけで

 さまぁ〜ず・大竹さんのことを前回のブログに書いたら、昨日、大竹さんが風邪で休養したということを『笑っていいとも』で知ることとなり、同じ心配性の人間としてとても心配であり、その心配がさらなる自身へのストレスとなり、それが原因でただでさえ不調気味な体調がもっと不調になり、その症状をあれこれ調べていると、これまたおっかない話が沢山出てきて心配になり、その心配がやっぱりまたストレスとなって襲いかかり、さらになんだかよくわからない新たな症状を引き起こし、それについて調べるとやっぱりおっかないことが書いてあって……。
 
 心配性が世の中を動かしているのであれば、あらゆる手段を駆使して、医療費はもっと安くされているはずで、がん検診なんかももっと気楽に(少なくとも費用的には)受けられるはずである。だが、どうも政治家という職業だけでなく、世間で支持されるのは、良くも悪くも心配性とは対極にあるような人間であり、そんな人から見れば、そりゃ私が常日頃、やつれるほど心配している様々な事柄なんて「気にするな」の一言で片づけてしまえるのだろうし、たしかに気にしなければ、そのストレスからくる症状に襲われることはないわけで、だがしかし、何も心配しなければ病気の早期発見などできるはずもなく、しかしながら早期発見できるほど心配性な人は、早期発見しても精神が持たないかもしれず、じゃあどうすりゃいいんだよと、これまた自暴自棄になったりして良くない人生のサイクルに巻き込まれていくわけで、とりあえずみなさん、こんな心配性な人間でも生きる権利はあるのだから、程よく心配性な人間をなるべく多く世界の中心に置いて、心配性な人間がもう少し楽に生きる世の中を作ってもらえないものかと世界の中心とは対極に近い辺境の地で願うわけであります。