過程か結果か

 映画学校時代の同期生が、どうやら何かちょっとあったようで、「過程より結果が大事なのか」というありがちな悩みを呟いていた。

 ありがちな悩みを持ってはいけない理由なんてないし、自分だってそんな気分になったことがないわけでもないので、コメントしたりはしなかったが、「まあ、とにかく生きることだけはやめずに頑張ってみいや」と思っておくことにした。

 しかし「過程」を重視しすぎた最も醜い例が、件の佐村河内氏だとも言えるわけで(結果=作品そのものではなく、聴覚障害を乗り越えて作曲家となった、という過程/物語を強く打ち出すよってあの人は売れたわけだ。まあ、その過程はほぼ虚構だったわけで、実際には「頑張って音楽活動を続けてきた」のではなく「頑張ってどう偽るか考え続けた」のだが)、「頑張らずに結果だけ求める」ことを多くの人は甘え(この言葉、大嫌いだけど)だと捉えるけれど、「頑張ったのだから、結果は二の次」というのも、やっぱり甘えと捉えられても仕方ない。

 佐村河内騒動というのは、この「過程か結果か」という、ありがちな悩み/問いに関して、色々考えさせられる騒動で、佐村河内氏自身は、実際の過程(つまり、正規ルートとでも言うべき、音楽修行など)をすっとばして、結果(成功、名声)を得ようとしたわけで、そこだけ見ると、やはり大事なのは過程だと思う人もいるのだろうが、しかし、受け手が出てきた作品そのものよりも、結果的には虚構であったにせよ、「聴覚障害を乗り越えて作曲家となった」という過程/物語を重視していたからこそ、佐村河内氏はああいった戦略をとったわけで、もし完全に受け手が、そんな背景の物語とは関係なく、作品そのものを評価するのだったら、ゴーストライターという手段は使っても、聴覚障害であることを強調する必要はなかったはずだ。

 そもそも、騒動になる前から、氏の作品に対して、「曲としては大して…」という人はいたわけで。逆に、本当に曲そのものに感動したのであれば、佐村河内氏個人への批判や売り出し方への批判はともかく、ゴーストライターであった新垣氏の作曲家としての能力を賞賛する方向に行きそうなのだが、あまりそういう話は聞かない(ちなみに、私自身は、《HIROSHIMA》が多少売れているというのを、ワイドショーかなにかのCDランキングでちょっと耳にしただけで、聴覚障害とかそういった背景に関しては、騒動になるまで知らなかった。当然、CDも購入していない)。

 過程か結果かと問われれば、私は基本的に結果が大事だと考える。たとえば、被災地への復興支援に関して言えば、支援する側の人間がいくら純粋に頑張っていたとしても、その行為が被災地の為にならない、どころか逆効果だったりするなら、批判されて当然なわけだ。

 ただし、才能に恵まれていない人間が、仕事や芸能、スポーツの面において、努力していること自体を、結果が出ていないからという理由で否定すべきかと言われれば、それはまた別の話だろう(まあ、他の選択肢を提案して、諦めることも大事だというアドバイスをするのは悪くないとは思うが)。むしろ、「問題」なのは、過程や目指している結果が間違っていないかどうかの方だ(思い返してみれば、STAP細胞小保方晴子氏に関しても、当初の報道では、研究室に寝袋を持って行っていたとか、とにかく「頑張っていた」エピソードがやたらと伝えられていた。こちらの騒動も、だんだんとSTAP細胞の真偽や小保方氏の研究者としての資質などよりも重大な問題が見えてきている気がする)。

 目指している結果や過程そのものが間違っていないのなら、まだ結果の出ていない過程の状態を否定される理由はない。ただし評価されなくても仕方はない。結局、そういうことなんじゃないかと思う。

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