人生を諦めきれない人間たち

 このところ、「諦めることができる強さを持った者」が気づきにくい「諦められない者の弱さ」(諦めない者の方が強いと思われがちなことも含めて)ということについて考えている。「諦めない者が自覚できない(あるいは認めたくない)、諦めないことの弱さ」と言い換えても良い。

 発端は、為末大さんの著書『諦める力』と為末さんのツイッターでの発言(そして、それに対して飛ばされるリプ)なのだが、週刊少年マガジンで連載中の漫画『聲の形』(大今良時)の最近の展開とそれに対するネット上での意見を眺めていると、さらにちょっと本腰を入れて考えてみたくなってきた(以下、『聲の形』のいわゆる「ネタバレ」的な内容、それも2014年7月9日現在、単行本には、まだ収録されていない話が絡んでくるので、バラされたくない方は注意。もっとも、『聲の形』という漫画そのものについて考察しようとすると、とてもブログ記事一回分ではまとめようがないので、私が今考えている「諦めることが〜」問題に関わる面くらいにしか触れはしない。……はず)。



 『聲の形』の第42話において、ヒロインの西宮硝子が自殺を決行してしまう(間一髪で救われはする。しかし、それによってまたさらに胃の痛くなる展開が進行中で、愛読者としては「大今先生、作品の完成度を高めるのは大いに結構ですが、もうほんの少しだけ読者の精神衛生のことも考慮していただけませんでしょうか」という気持ちになるのが、本日発売の週間少年マガジンに掲載された第44話における素直な感想)。自殺という行為そのものを肯定する気持ちはないが、物語をしっかり読んでいれば、硝子が自殺に至った理由は、それほど理解し難いものではない(かいつまんで言えば、硝子は聴覚障害者で、そのことが原因でいじめに遭ったりもしていたのだが、それ以上に彼女は、自分は他人を不幸にしてしまう存在だと考えているようで、ゆえに大切な人をこれ以上不幸にさせないための手段として自殺を選んだということになるのだろう)。それでも、ネットなどでキャラ叩きに近い否定的な意見が飛び交ったりしていた。

 『聲の形』そのものに関する考察をしていくなら、極端なキャラ叩きに走る人たちの「読みの浅さ」を指摘したくなるところではあるのだが、ここでは(悪い言い方をすれば、たかが漫画のキャラクターの行為に関して)なぜそこまで「自殺」を決行した者を攻撃したくなるのかということについて考えてみる。

 自殺という行為を否定する意見の理由でよく見られるのが、自殺という行為自体が他人を傷つける迷惑行為だというものだ。たしかに、例えば電車への飛び込み自殺なら、目撃者の精神的ショック、電車の遅延、賠償請求される家族、遺体を処理する者の苦労(余談になるが、80年代〜90年代半ばあたりにおける悪趣味系ビデオのマストアイテムとなった『デスファイル』の中で、強盗殺人の現場に立ち会った警官が発した「殺して逃げるなら、死体も一緒に持っていけ」という言葉が忘れられない)などが考えられる。また、飛び降り自殺に巻き込まれた例もある(直撃を受ける等)。もっとも、上記の「迷惑」は、死に方や死に場所を誤らなければ、ある程度防げるものである(『聲の形』の硝子も飛び降り自殺を選択したが、落下点は川であり、そういう意味では無関係の人間を巻き添えにする可能性は低かったと思われる)。そうなると、自殺における最大の問題は、やはり残される者の悲しみということになるだろう。今回は、特にこの点について考える。

 話を『聲の形』に戻す。この作品の中で、ヒロインの西宮硝子は、割と気丈で、そして思慮深い面(今は、えらいことになってしまっているが)が何度も描かれている。では、なぜそんな「強く」「思慮深い」硝子が、自分の死によって傷つく人がいるということに考えが至らなかったのか(あるいは、考えはしたが、それによって悲しみを与えることよりも、自分の死によってもたらされるメリットの方が大きいという結論に至ったのか)。これは、ひょっとしたら、強い者が弱い者のことを理解しにくいという、言ってみればありがちな理由なのかもしれない。つまり、ここで「諦めることができる強さを持った者」が気づきにくい「諦められない者の弱さ」という問題に繋がってくるわけだ。

 「自殺」というのは、(理由に差はあれど)つまりは生きることを諦めることである。単純に、死ぬというのは怖いことであり、「勇気」という言葉を自殺に対して使うのは抵抗はあるが、しかしながら否定もしきれない(だからこそ私も「いじめを苦にして自殺する勇気があるのなら、いじめっこを殺せ」という意見に同意してしまうのかもしれない)。硝子は他にも色々と諦めてきたようだが、ここにきて「生きる」という大前提を諦めたわけだ。それが、大切な人をこれ以上不幸にさせないための最善の方法だと考えて。
 
 この件で厄介なのは、おそらく「諦める強さを持った者」はそれを強さだとは思っていないことだ。言い換えると、「諦める強さを持った者」でも「諦めない者の方が強い」と考えている場合が多いのではないかということで、そうであるなら自分より「強い」人たち(=諦めない人たち)が、自分の死によってそれほどは悲しまない(悲しんだとしても、きっとその悲しみから立ち直ってくれる)と考えてしまってもそう不思議なことではない。とりわけ、硝子の自殺の理由(として推察されるもの)を思えば、当然と言ってもいいのかもしれない。なにせ彼女は「自分は他人を不幸にしてしまう」と確信しているわけであり、元々自己肯定感が低いのである(死によっても、当然相手を不幸にするわけだが、それ以上の不幸はもう起こりようがない)。

 しかしながら、その後の話において、さらなる波乱が巻き起こっているように、そう簡単に人は身近な者の自殺という出来事から立ち直ったりはできない。そこまで強くはないのである。『聲の形』の中で、かつて硝子をいじめる側だった同級生の植野が「いじめは、もう自分達に関わらないでほしいというメッセージ」だったと語る場面があるが、自殺を決行してしまった硝子に対する過剰な非難というのは、ある意味、弱い者から強い者に対する悲鳴のようなメッセージなのかもしれない(『めだかボックス』の名瀬夭歌に対するいじめは、作中ではっきりとそう書かれていた)。そして、繰り返すが、このメッセージの厄介なところは、「諦められる強い者」はそれを強さだと思っておらず、また「諦められない弱い者」は「諦められない」ことを弱さだとは思っていない(むしろ、強いことだと思っている。そして、「諦められる強い者」でさえ、そう思ってしまっていることが多い)ということだろう。「自殺」という、ある種極端な例を手掛かりに考えてみたが、おそらくこれは、他の面でもあり得ることなのではないかと思う。

 それにしても、『聲の形』はディスコミュニケーションが大きなテーマになっているのだろうが、上記のような面でも、ディスコミュニケーションの物語なのだと言えるのかもしれない(ところで、『聲の形』の2ちゃんねるなどのスレは、あまりに乱暴な意見が飛び交うので、眺めるのもうんざりしてくるのだが、あそこで頻出する「正論」という言葉が気になる。「正論」というのが、自分の感情を満足させてくれる意見だとしか思っていないかのような使われ方である)。


聲の形 PV



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709






 追記

 「諦められない」で思い出すのは、映画『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』(2009年/サーシャ・ガヴァシ)だが、この映画が感動的だったのは、ヘヴィメタルバンド・アンヴィルの「夢を諦めない弱さ」も、ちゃんと見据えていたからではないかと思う。ばりばりの自己憐憫物語であるからこそ、結局そういったものに抗いきれない者の心を打つといったところか。


映画 『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』 予告編


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