少年たちは花火をテレビで見たかった

 また『聲の形』に関する話なので、ネタバレ注意。


 この漫画を胸キュン的な意味で楽しむことができるのは、単行本で言えば、やはり3巻がピークで、あとは2巻、4巻のところどころで胸キュンスイッチが叩き割られるわけでありますが、しかし、ここ最近の連載の流れ、特に硝子の自殺決行とその後の植野による硝子への暴行を経た今だと、もうこの胸キュンポイントのほうが読み返すと辛い。どんなに微笑ましい場面でも「この子がこの数か月後に身投げしてしまうなんて……」「しかも、助かりはするものの、無抵抗のままボコボコに殴る蹴るの暴行を受けて、石田に褒められた髪の毛をむしりとられるほど強く引っ掴まれてしまうなんて……」という思いがめぐり、痛々しくて読み返すのが辛い。

 で、『聲の形』の最新話、ちょっと遅れて読みました(こちらは、マガジンの発売が少し遅れたりするような土地です)。永束君が素敵すぎました。私が愛してきた「へもかっこいい男達(へもいけどかっこいい、というより、へもいからこそかっこいい男たちという意味で使ってます)」の良い部分が今週の永束君に凝縮されているかのような…いい奴だよ。泣いたよ。永束君の隠れた(?)ハイスペックぶりは、前々回のブログでもちょっと触れましたが(→http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20140720/1405867742)、今回はそんな永束君の魅力が爆発していましたね。久しぶりに笑顔になれました(植野さんのことは相変わらず好きになれないけれど。しかし、よく考えると、私は植野が嫌いというより、これも、前々回書いたことに繋がるが、将也に対する一途さという点で植野を支持する人が嫌なのかもしれない)。

 それにしても、永束君、ストールだかマフラーだかわからんけど、風になびいちゃって、もうヒーローの風格が出てるんですもの。あと、彼のもこもこ頭は、これもまた私が大好きな大泉洋や近年の土佐信道社長を彷彿とさせるのですよ。好きにならないはずがない。

 そういえば、「これは永束君に寝取られる展開ではないか。そうなるとまた胃が痛くなる」という感想を見かけたのだけど、植野に妨害されまくって、結局将也と引き裂かれて、また哀しそうな顔をする硝子を見なくちゃいけなくなるくらいなら、いっそもっと永束君と仲良くなって、二人で幸せになってくれたほうが、いち硝子ファンの私の胃には優しい展開だったりする。

 いや、しかし、『戯言シリーズ』の哀川潤さんなら、きっと将也と硝子に言うはずなんだよな。「ハッピーエンド以外は認めねえっつーの」って。


 さて、「なぞ解き・聲の形」のコメント欄にも書いたのだが、硝子の誕生日「6月7日」は、どうやら「6+7=13」「6×7=42」という意味のようだ。どうも『聲の形』は、キリスト教との関連を窺わせる面があり(詳しくは、「なぞ解き・聲の形」のこちらのエントリ→http://koenokatachi.seesaa.net/article/400868849.html)、特に私の胃に穴を開けさせかけた硝子の自殺決行回(これが第42回。まさに「死に」回。そして、硝子の誕生日が明かされたのもこの回)と続く第43回は、最後の晩餐(いわゆる13日の金曜日)になぞらえているのではないかと「なぞ解き〜」で指摘されている。いち硝子ファンとしては、たいへん不安になる説でもあるが、今はとにかく身代りとなった将也が救世主として復活することを待ち望むしかない。

 そんな風に「なぞ解き〜」で、こういった考察を読んでいたら、他の創作物とキリスト教との関係についてもなんとなく考えるようになり、久しぶりに『CineLesson16 シネマの宗教美学』(フィルムアート社)を再読したりもした。そして、大今先生はどうもありきたりな展開を嫌う傾向にあるようなので、キリスト教/聖書に関わる作品で特に驚きの展開を見せたものはなんだったろうと考えていると、ふと『ジーザス・クライスト・スーパースター』が浮かんだ。

 私はノーマン・ジュイスンによる1973年の映画版しか観ていないのだが、この作品で驚かされたのは、キリストの復活は描かれないのに、ユダは復活するという点だ。元々この作品は「ジーザスの危うさ」と「ジーザスに対する失望と危惧を抱くユダ」という主軸からなっており、キリストが復活せずにユダが復活し、名曲「Superstar」を歌うというのは、ある意味必然と言える。

「Jesus Christ, Jesus Christ, Who are you? What have you sacrificed? Jesus Christ Superstar, Do you think you're what they say you are?」

 『聲の形』本編で、いまだに昏睡状態の将也が、もし花火大会(硝子の自殺決行の日)から3日目に目覚めれば、将也=救世主という仮説がより強固なものとなったのだが、残念ながら彼は、上記の通り眠り続けている。3日目どころか、本当にそんなに昏睡状態が続いて命のほうは大丈夫なのかと心配になるレベルである。もし仮に、私が考えている以上に「ありがちな展開」を先生が嫌っていて、(正直、想像したくもないが)将也が復活しないのだとしたら、『ジーザス〜』のように、ユダ的なるものが代わりに復活(活躍)するということもあるのかもしれない。キリスト教的なモチーフに彩られながら、実際の「神」が介在してこないのは、『聲の形』も『ジーザス〜』も同じである。将也(あるいは硝子?)に対する、私のような読者のある種の「期待の大きさ」から生じる危うさを危惧するユダ的存在。その位置に立ち得るのは、誰だろう。……真柴君?(初めのうち、やたらと将也に興味津々だったのは、「ジーザスに対する期待があまりにも大きすぎたゆえに、やがてそれは大きな失望となり……」(Wiki引用)ということ?)

 まあ、そんな胃が擦り切れるような本編の痛ましさに耐えきれず、戦闘不能寸前状態の私のような修羅場耐性の低い読者に対する救済措置なのでは? と思ってしまうのが「聲の形コピペBOT」。こちらの世界では、みんな幸せそうである。大嫌いな植野や川井でさえかわいらしい。



 再度掲載になるけれど、キリスト教的なモチーフで彩り悲劇的な結末を迎えるのなら、せめてこの『ライフ・オブ・ブライアン』くらいの救いを……


 ユダといえば、もし永束君が将也を裏切ることがあったら、それこそユダである。で、余談中の余談、こじつけ中のこじつけだが、以前、永束君が爆笑問題田中裕二に似ているという話をしたけれど、将也と永束が並ぶと、これがまた爆笑問題っぽい。親から「お前は昔、いじめっ子だった」と言われているらしい太田光。高校時代は、ほとんど誰とも会話しない暗い3年を過ごした太田光。自伝かなにかで「自分がキリストなら、田中がユダ」と言っていた太田光(こじつけが過ぎますかね)。



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709

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 人混みは嫌いだし、夜中虫が飛び交う屋台群の中を歩くのも嫌だし、花火大会なんてものは、私にとっては基本的に行きたくない場所であり、下から見るか? 横から見るか? なんて葛藤が心の中で生じるはずもなく、テレビ中継だけ見てれば充分じゃありませんか? というスタンスです。そりゃ、硝子のような子が一緒に行きたいとか言ってくれるなら、下からでも横からでも見に行くことでしょうが、現実はそう都合の良い展開にはならず(それに、前にも言ったように、私の本命は『それでも町は廻っている』の紺先輩ですし、紺先輩もまた花火大会とかさほど興味なさそう)、テレビ東京の花火中継すら電波状況が悪くて映らなかったりします。


聲の形(4) (講談社コミックス)

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シネマの宗教美学 (CineLesson)

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少年たちは花火を横から見たかった [DVD]

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 「一途だか健気だか真っ直ぐだか知らないけど、それで他人を攻撃したり排除したりすることが許されるわけじゃないでしょう。君こそ甘えるな。諦めろ」