石田君、腹を割って話そう。

 私みたいなド田舎、というより秘境に近い場所に住んでいる人間は、今すぐその場で映画を勝手気ままに撮る(そんなものを映画と呼ぶか、みたいな話は別として)のには適しているかもしれないけれど、映画学校的なところへ進むのは少し冷静に考えてみてからにしたほうが良いかもしれない。滅多に人も車も通らないところに住んでいると、車止めとか人止めとか、そういう撮影の際の行動でどれだけ迷惑がかかるかといったことが想像しにくくなっている可能性がある。実際、私は映画学校の撮影実習で痛感させられた。街へ出る前に、せめて校内にもっとスタジオを作って、そこで撮影実習を重ねるなどして慣れさせてほしかった。

 ところで、日本映画界において、いち早く撮影所を飛び出したのは清水宏だったはずだから、私が映画学校時代、撮影許可を巡るあれこれで心に風邪をひいてしまった遠因はこの名監督にあると言っていいのかもしれない。生活に困窮して所有するDVDなどを売ることになった場合、おそらく最初に手放すのは清水宏監督作品だろう。

 『聲の形』でも映画制作が再開されそうな気配だが、それが主人公・将也が望むことなのかどうかという問題とは別に、コミュニケーションに関して重大な問題を持っているメンバーばかりで、この先の撮影において近隣住民との大トラブルが起きたりはしないかと不安になっている。まあ、さすがに残り話数も少ないので、映画製作にまつわるリアルさまでを描くことはないだろうから、たぶん大丈夫なのだとは思うけれど。

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 さて、性懲りもなく『聲の形』に関してあれこれと(ネタバレ注意)。


・石田ママの言葉について

 最新話(第49話)の石田ママの印象的な台詞「はげますことも怒ることもできる/笑顔で話すこともできるけど/どれも本物じゃないような気がして…」。大今先生はネットの評判をしっかり読んでいるらしいのだが、今回の石田ママのこの台詞は「そう西宮さんに伝えて」となっているものの、実際のところ、石田ママはああするべき、いや今までがああだったのだからこうするのは云々と勝手な期待や批判、憶測を述べていた私を含めた読者に対するメッセージのように思う。感情を丁寧に描くと、問題解決は必然的に遠退く。どうにもならない思いを描いているわけだから、どうしてもそうなる。特に石田ママの今の立場ならなおさらだろう(そりゃ、ネットで過剰とも思えるほど自殺という行為に対しての批判がなされているように、自分の息子が自殺の巻き添えを食らった形ともなれば、その相手に対して怒りたい気持ちは当然生まれるであろうが、しかしながらその自殺の原因のひとつが他ならぬ息子であるし、そもそも過去のあれこれを思えば、自分がここで硝子を叱る資格があるのかという迷いも生じよう。ゆえに、どんな対応を選んでも本物ではない)。

 無理にでも問題解決を優先させる場合、たとえば近年の作品で言えば西尾維新の『物語』シリーズの忍野メメのようなほぼ人外のようなキャラクター、あるいは『リーガル・ハイ』の古美門先生のような人間的にはドクズだったり危険人物だったりしても、徹底して理性で戦うようなキャラクターを置くしかない(『ダークナイト』ジョーカーもそういうタイプだが、こちらはむしろより的確に事態を悪化させるために存在している)。だが、『聲の形』には、そういった超越者的な存在が登場する気配はない。最も徹底的に悪く描かれていた西宮の父方一家でさえ、「俗っぽい悪」であり、乱暴な言い方をすれば「悪役」というよりは「クズ」といった蔑称の方が似合うキャラクターであり、それこそジョーカー的に言えば、まったく上等な悪ではない。

 結果として、石田ママの対応は、現状を悪化させることもないが解決することもなかった。ただし、個人的な感想を言えば、私はホッとした。これだけ複雑な事情の中で、石田ママがその時もっとも強く抱いた感情に従って行動してしまっては、悪化どころか取り返しがつかない事態になりかねない。なんだかんだ問題点を指摘されがちな登場人物ではあるが、私はこの人が『聲の形』の中で、いちばん立派な人だと思っている。

 そういえば、植野の硝子への暴行に関して、加減次第だが酷いとは思わぬというような意見をいくつか見た。また、感情なきロボットでなければ思いを抑え込むのは無理みたいなことが書いてあって、たしかに思いを抑え込むことの困難さは分かるし、自分が似た立場に置かれた場合に抑え込む自信はないのだが、だからといってその行動に至った気持ちが理解できるということは、イコールその行動を肯定する、ということにはならない。また、そもそもそういう気持ちに至った理由である情報が、かなり間違ったものである可能性が低くないのだから、なおさらである。植野がどうしても嫌いとは何度も書いているが、植野の気持ちが分かるから植野を肯定するという人が嫌い、というのがやはり私の正直なところなのだろう。

「感情なんかどうにでもなるさ。感情なんて、理性に比べりゃ全然大したことがねえ。理性によって抑えつけることのできねえ感情なんて、一つだってねえんだ」(西尾維新『零崎双識の人間試験』284P)

 やはり、私は困難であっても、感情を理性で抑え込む人を評価したいし、そうなりたい(もっとも、西尾維新は「感情は制御できるが、理性は制御できない」ともアニメ版『化物語』のキャラクターコメンタリーの中で書いていて、理性的すぎることの問題点についても無頓着ではない)。

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・硝子の自殺理由はどれだけの登場人物が理解しているのか?

 第45話の人物紹介において「将也を自分が不幸にしていると感じ自殺を図るも、将也に救われる」と書かれ、あらすじにおいても「そんな将也に「私と一緒にいると不幸になる」と告げた硝子。そして夏祭りの夜、硝子は飛び降り自殺を図り、助けようとした将也は代わりに転落してしまう…」とある。編集部の見解と大今先生の見解が絶望的に乖離していない限りは、たとえその描き方にどんなに批判があろうとも、本編における硝子の自殺の理由は上記のとおりなのだろう。

 この理由を聞いてなお、それを硝子の甘えととるか否かはまた別の問題だが、ここで問題にしたいのは、物語の中の登場人物たちは、この硝子の自殺理由をどの程度まで理解しているのだろうかということだ。理解というのは、「その気持ちは分かる」とかそういう意味ではなく、その理由を聞いて硝子を肯定するか否定するかとは別に、単純に「それが理由なのかどうか」を分かっているかどうかという話だ。

 直接、硝子に「なんで君は死のうとしたんだい?」と訊いたのは永束だけだが、それに対する硝子の答えは、描かれている限りで言えば「みんなが築き上げてきたものを壊してしまった」だけであり、これだけだと「そんな自分が嫌になったから」という理由ともとれてしまうわけで、上記の理由とはちょっとニュアンスが異なってくる。佐原に関しても、植野の硝子への暴行時の言葉を聞いた程度だし、その後硝子と再会した場面でも、その理由についてのやりとりは描かれてはいない(まあ、永束に関しても、佐原に関しても、描かれていないだけ、という可能性は充分あるのだが)。

 そして植野である。植野がどの程度、硝子の自殺理由を理解しているかによって、硝子への暴行の印象が少し変わってくるかもしれない(といっても、いくつかの例で多少の情状酌量が認められるかな、という程度ではあるのだが)。

 「思い上がり」という言葉がキーワードだと思う。悲劇のヒロイン気取りというが、硝子の境遇は私には悲劇としか思えず、その通りじゃないかという気になる。また、そのことに酔って他者の気を引こうとしているわけでもなさそうなので、ひょっとしたら「悲劇のヒロイン」という概念自体が植野と私とでは異なっているのかもしれない。植野は何度も「西宮さんがいなければハッピーだった」と語る。ならば、硝子の自殺は、それこそ植野の期待に応えたようなものであり、そこが崩れない限り植野の暴行の悪印象は和らいだりしないのだが、しかし、植野がそう思いつつも、嫌いな者同士平和にやろうと提案したことはひっかかる(ところで、硝子の手紙の内容に関して、聞こえは良いがいわば処世術だとする意見があったが、処世術で何が悪いのかとは思う。植野の暴行は理解できて、あの境遇の硝子がそういった処世術に頼らざるを得なくなるのは理解できないということこそ私にはわからない。どちらも分かるから、こちらとしては植野を嫌いつつ、もやもやと考えさせられているわけだ)。

 植野は感情的だが、その分「動物的な勘」のようなものは鋭いのではないか、ということは、他の考察ブログなどでもたまに見られる意見だ。もし硝子の自殺理由をなんとなくにしても見抜いていて、さらに自身の「西宮さんがいなければハッピーだった」という主張のことも硝子の自殺に直面して多少は思うところがあったのだとしたら、植野の心境というのは、単純に好きな相手が他者の自殺に巻き込まれたことの怒りだとか、逃げの姿勢(のように植野には見えているのだろう)の硝子への苛立ちといったことだけではなかったのかもしれない。……まあ、あくまでこれは推察であり、実際のところは、今後の植野の内面描写次第ではあるのだが。

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 ここで一休み。「どうでしょうバカ」(『水曜どうでしょう』の熱心なファン、というかファンすぎて「バカ」が付いたファン。「どうラー」という呼び名もあるが、わたしはこの「どうでしょうバカ」という呼び方が好き)な私が妄想する、重苦しい空気が続く『聲の形』を一気にバカバカしい展開に変える無茶な方法。



 今後、硝子と将也はきっと腹を割って話す展開があるのだろうが、腹を割って話すというならやはり、病み上がりというか意識取り戻したてでフニャフニャ状態の将也の病室に深夜、色々ありすぎて妙なテンションになった硝子が「腹を割って話そう」と乱入して、植野から締め出されてた分を取り戻すかのように延々居座るという展開を妄想している。

 さすがに応対するにも体力の限界を迎えた将也が独白で、こう読者に語りかけるわけだ。

 「みなさんもご覧になったでしょう、俺はあのマンションのベランダから西宮を助けようとして落っこちて瀕死の重体だった石田将也ですよ。寝たきりだった石田将也ですよ。西宮をなんとか助けたあとに、俺は落っこちてこの病院に運ばれたわけですよ。そしたらもう瀕死の重体で、何日も意識を取り戻せなくて、その間俺が知らないところで西宮の母さんが土下座したり、キレた植野に西宮がボコボコにされたり色々あったらしくて、目覚めたてにそんなこと知らされてまた気絶するんじゃないかって俺はもうへとへとですよ。でも、もうとりあえず今は寝て身体を回復させようってところで、永束君が「映画を再開する」ときまして、その話を聞き終えてやっと寝れるってなったのが消灯時間ギリギリですよみなさん。で、色々不安定な状態でようやく寝れそうだったのが12時なんですよ。いいですか、12時に俺は布団に入って寝ようとしたんですよ。すると現われたのが、この妙なテンションの西宮なんですよ。なんの気か知らないけどこの西宮が現われて、俺はまだ身体も頭もふらふらなのに「腹を割って話そう」と――俺は苦肉の策で、この西宮の妹である、これもまたバカな奴なんだけど結絃に電話をしたわけですよ。「西宮が帰らないから結絃、連れて帰ってくれ」と言ったら、その結絃は皆さんなんて言ったと思いますか?「ああ、そうか。わかったわかった、石田。じゃあ、カメラ回そう」と言って、いま結絃はカメラを回しているわけですよ、どうですか皆さん、おかしいでしょ?この人たちは!」 (参照『水曜どうでしょう「東北2泊3日生き地獄ツアー」』より)

 ……で、なんやかんやありつつ、結局最後は将也が「俺は一生西宮を守ります」と宣言してハッピーエンド。無茶すぎるな。でも、いっそそのくらいバカになってくれないと、そろそろ私のメンタルが限界ですよ大今先生(泣笑)。硝子ちゃんに、せめて藤村Dの1/10くらいの厚かましさがあれば(1/10じゃ、ちょっと多いかもなあ。あのヒゲの厚かましさは、もう清々しさすら感じるレベルだからなあ)、こんな悲痛な展開にはならなかったろうに。



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709

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 呟き散らかしたこと



 『聲の形』の大今先生のサイン会(リクエストしたキャラクターを描いてもらえる)の様子がタイムラインに流れてきた。コンビニすら行くのにひと苦労な北の大地の端っこの人間には縁遠い話。もし行けていたなら、選ぶのは硝子一択なんだが、直球すぎて恥ずかしいので「表へ出ろ」の硝子ちゃんを希望したはずです。

 しかし、西宮父(両親セット)をリクエストした酔狂なファンはいたのかしら。西宮ママがなぜあんな男に惚れたのか、というのは『聲の形』最大の謎だろう。結絃は硝子を「チョロい」と言っていたが、当時の西宮ママはそれ以上にチョロかったのだろうか。 

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 サイン会といえば、神奈川在住時、クラウス・フォアマン氏(ビートルズの「リボルバー」のジャケットを描いた方)のサイン会があって、整理券にサインのための名前を書いておいてくださいと言われ、書いたはいいが日本語で書いてしまって、慌てて直したらえらい汚くなって凄く恥ずかしかった想い出が……

 サインに関してもう一つ思い出話。映画『PEEP "TV" SHOW』が公開された時、監督の土屋豊、脚本の雨宮処凛両氏にサインを頂いたのだが、暗い場所で頼んだため、色紙が表裏逆だったことに後で気づいた。おそらくこの世にただ一枚の色紙裏に書かれたお二人のサインと思われる。

 古本屋で買った本がサイン入りだったことは結構ある。また、古本に手紙が入っていたというベタな展開も実際に何度かあった。ただし返事は書いてない。黒髪の乙女だと思っていたら、月の裏側から来た人間のような顔をした奴が出てきた(@『四畳半神話大系』)なんて事態に陥った時、発狂しないでいられる自信がないからである。

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 たまに「美人と不美人が両方言い寄ってきたら、性格悪くても美人選ぶだろ?」みたいな質問をして、勝手に人を「しょせんおめえも見た目なんだろ」的な結論で丸め込もうとする奴がいるけど、なして「両方選ばない」という選択肢を許してくれんのかね。だいたい、美人の黄金比的な問題は別として、個人的な好みの顔っていうのは、性格に惚れこんでいったらだんだん魅力的に見えてくることもあるわけで、不美人にしか見えないってことは、そもそも性格にも惚れ込んでないからそうなるわけで、だとしたらやっぱり先の質問なら両方選ばねえだろ、と。