真のバカ考

 昔、『あっぱれさんま大先生』に出演していた有田気恵が「きーちゃんのママのお友達ね、腐った牛乳飲んで便秘治しちゃったの」と言っていたのだが、それは「便秘」という症状に「下痢」という症状が上書きされただけで、「治った」のではなく、むしろ体調的には悪化しているのだと思うが、本人が喜んでいるのなら、もうそれは私らがとやかく言う必要はないのかもしれない。

 ただし問題なのは、本人が喜んでいるだけなら良いのだが、「便秘を治すには腐った牛乳」だと勘違いして、便秘に悩む人の口に無理やり腐敗した牛乳を流し込むようになったら、それはエライことであり、この辺りに「気持ちの良いバカ」と「傍迷惑なバカ」とを分けるボーダーラインがあるのではないか、などと自称「頭悪い研究家」(所ジョージさんの本業もコレらしい)の私は考えたりすることもあって、ゆえに朝っぱらからこんな吐き気を催す話をしているのである。

 たとえば、キース・リチャーズが「すべての人間は、オレたちみたいにフライドポテトを万引きして腹を満たし、気が向いたらホテルの窓からテレビをブチ投げ、2000人だか3000人だか忘れたがそれくらいの女と寝るようじゃなきゃダメだ」なんてことを一言でも言っただろうか。いや、言ったのかもしれんが、言ったとしても誰もマトモに取り合わないだろうし、マトモに取り合わないクセに、「さすがキース、ユカイなこと言ってくれるじゃねえか」とますますキースは世界中の愉快なバカたちに愛すべきバカの親玉として惚れこまれるんじゃなかろうか。たぶん、私は惚れこむ。だいたい、そんなこと普通の人間には実行不可能である。私にいたっては、2000人の女と寝るどころか、生涯で会話した人間の数が2000人に満たないおそれが充分にある。

 ようするに、傍迷惑なだけのバカというのは、たぶんそこまで突き抜けたバカは出来ないから傍迷惑なのではないか。あるいは、本物の清々しいバカというのは、何かバカなことをやって(本人的には)良い結果が出たとしても、じゃあ人類すべてこうするべきじゃないか、なんて余計なことは考えないのだろう。考えるだけの余裕が生まれるほどの脳ミソを持っていないだけかもしれないが、いずれにしても、日常生活を送る分にはバカだとはそうそう思われないが、しかしながら実際のところは、ちょっとバランスを崩せばトンデモな行動を正義と信じて突き進んでしまうようなバカというのがたくさんいて(人類は有史以来、バカの方が多いという話は真実だと思うのだ)、そういう隠れバカを扇動してしまうのが傍迷惑なバカと言えるのではないかと、バカの一人たる私は思うわけである。もしくは、そんなものに扇動されてしまうのもまた傍迷惑なバカと言えるかもしれない。

 誰にもマネできないバカをやるのが真のバカであり、誰でもマネできるバカをやるのは、もうそれは「バカ」というある種の名誉的称号を与えるのも不愉快な、掃いて捨てるべき存在なのかもしれない。コンビニのアイスクリーム棚で寝転がるのは、やろうと思えば誰でも出来るが、首相に裸で面会しようとして断られ、腹いせにロンドンブリッジのてっぺんから裸で飛び降りるというのは、ちょっとマネできるものではない(しかも、それだけやっておいて、本人の怪我は両足と肋骨の骨折だけというのが、真のバカの恐ろしさ)。ダーウィン賞的な視点にたてば、本人だけに死の危険が伴うバカな行動を平気で行う者こそ勇者だという話だ。私は死にたがりではないから、そういう真のバカにはなれそうにないが、しかし、真のバカたちだって死にたくてやったわけではないのだから、ひょっとすればこれだけ死を恐れていながらも、ある日、真のバカさが開花して、とんでもねえことやらかしてポックリ逝くかもしれない。その時は笑ってやってほしい。

ライフ

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