硝子ちゃんのポニーテールには、さよならしたくないポニ

 『聲の形』がコミックナタリー大賞2014で第1位に選ばれたようです(http://comic-award.natalie.mu/2014/)。

 というわけで、日曜恒例の『聲の形』最新話を読んで、感じたり考えたり悶えたりしたことを書き残しておこうの回(ネタバレと過剰な愛や憎悪に溢れた気持ち悪い文章に注意)。第53話「橋へ」編。

 石田に気づいた硝子が可愛すぎる!

 大事なことなのではっきり言ってみました。最初に石田の気配に気づいて目に涙をためながら振り向く大ゴマは、硝子信者の私を殺しにかかってきているようです。このブログでの感想や考察のあまりの気持ち悪さに、大今先生が私に対し明確な殺意を持ち始めたのかもしれません(そんな影響力、おめえさんにねえよ)。もちろん、「つん」→「は」でも殺されかけました。指が震えちゃってる硝子も愛しいですし、最後のコマ、久しぶりの本当にうれしそうな顔なんて涙々ですよ(この表情は、佐原を探しに行った時のくっついてくる子犬のような姿だった時の硝子に似てますね)。

 しかし、鬼……否、ラムちゃんな大今先生。感動の再会に素直に涙し続けたり、将硝の夫婦漫才にクスッとしたりツッコミを入れたりする余裕は私にはまだ生まれません。まだまだこの先が不安。大今先生が信用できない……批判ではないけど、そろそろ安心させてくださいとは思います。



 ここから、少し考察モードに(というか、今回は特に『聲の形』を読んで改めて考えた私自身の基本的な価値観というか批評的視点というか、そういうものの表明です)。

 私は『聲の形』を、いじめの加害者がそのことをしっかり反省しないまま、望みのものを手に入れる物語だとは思っていません。もし、そのような展開になった場合は、「ああ、現実というものの残酷さを描くことを選んだのだな」と解釈するだけです(他の誰かも似たことを呟いていたが、酒もドラッグもやりまくりのキース・リチャーズが70歳になっても健在なのは、キースのファンとしては頼もしい限りだが、社会からすれば「悪い例」なわけで、明確な反省もないまま植野が望みのものを手に入れるのも、やっぱり「悪い例」だと思うわけ)。

 というのも、大今先生がインタビューにおいて「単純な勧善懲悪の物語にはしないつもり」といった旨の発言をしたことを挙げて、なら植野がこれ以上罰せられる必要はない/明確に救われるべき、といった意見を見かけるのだが、たしかにそういった「展開」が選ばれること自体はあり得るのだろうが、しかし、「勧善懲悪の物語ではない」=「過ちの反省が必要ない」というわけではないだろう。また、因果応報の脱落者が出ることも、「勧善懲悪ではないという趣旨に反する」とは思わない。

 シュワちゃんが出てきて悪い奴を叩きのめす(あるいは懲らしめて反省させる)、というのがシンプルな意味での勧善懲悪の物語だろう。植野と将也が結ばれるという展開そのものが無しなわけではないが、植野の救済にはそれしかありえないからそうするべきだという意見は、植野の過ちの反省なしには到底納得はできないし、仮にしっかり反省し「善」となったとして、それでも植野が望みのものを得られなかったという展開は、それこそ「勧善懲悪ではない」ことでもあるわけで、なら、もうこの辺りは単純にどのキャラクターが特に好きで幸せになってほしいかという読者の個人的願望でしかないだろう(こういった話の中で「植野が因果応報の脱落例として描かれること」=「硝子を持ち上げるために植野を叩く手法」だとする理屈も見かけられるが、これがよく分からない。そんなことを言い出したら、キャラクターの醜い面など一切描けなくなりそうである)。

 そもそも、キャラクターが明確に「善」と「悪」に分けられていない時点で、誰が幸せになろうが誰が不幸になろうが、勧善懲悪の物語にはなり得ないと思う。勧善懲悪というのは、わかりやすく「悪」なるものが懲らしめられ、「善」なるものが勝つというだけの話だ。そりゃ私は植野は心底嫌いだが、植野が純度100%に「悪」として描かれてるとは微塵も思えない。むしろ、もっとはっきりと悪役に描かれていたほうが好きになっていただろう。いわば、キャラクターの描かれ方の時点で、この作品が勧善懲悪の物語となることは既にないと思うのである。

 同様に大今先生のインタビューにおける「単純な恋愛によって解決はしない/恋愛漫画にはしない」といった旨の発言に関しても、「恋愛漫画ではないこと」と「将也と硝子が結ばれないこと」をイコールとして考えている人がいるが、そういうわけではないだろうと思う。そこは、将也と硝子でも将也と植野でも変わりはなく、結ばれようが結ばれまいが「恋愛によって解決されたわけではない」のなら、別に発言に矛盾は生じないはずだ。ここまで、様々な要素を多層的に描いてきたのだから、今後どう転ぼうが(恋心の成就によってすべてが解決、というような描かれ方をしない限り)もう単純な意味では恋愛漫画にも勧善懲悪漫画にもなり得ないというのが私の意見である。

 そんなわけで、恋愛面での決着が将也と植野で落ち着くのは、個人的には嫌だが、納得できる描かれ方をするのであれば、まあしょうがないとも思う。だが、ずっと気になるのは、この将也×植野を推す人達が、その辺りのことを考えている感じがしないことなのだ。性格的にこの二人の方が合うのではないかという指摘そのものには、まあそういう面もあるかなと思わなくもないのだが、問題なのは、一途であれば無抵抗の恋敵を攻撃し続けたことを不問にしても良いのか、ということなのだ。つまり、植野が将也と結ばれるためには、硝子に対してしてきたことが過ちであると植野がもっとはっきりと自覚しなければ、到底こちらとしては納得できないのである。逆に言えば、そこさえ踏まえてくれれば、構わないのである。だが、少なくとも私は、今の所、そこを踏まえて将也×植野を推しているのをあまり見たことがない。ただの予測だとしても、そこが気にならないというのはちょっと理解しがたいのだ。

 自殺という過ちを犯した硝子のほうがはるかに罪が重いだろうという意見もある。私は根本的にその意見には反対なのだが、天文学的な歩数を譲って、仮に硝子の犯した過ちが植野の過ちよりも重いものだと仮定してみよう。しかし、である。

 なら、佐原さんへの仕打ちの罪はどうなるんだ、このヤロウ!

 見方によれば、硝子以上に植野によって人生を破壊されたのが佐原である。硝子が天使すぎるという意見はよく見かけるが、私としては、佐原さんが植野を友達だと思っていることのほうがファンタジーである。

 つまり、私が植野×将也派の人に問いたいのは、「その植野は、硝子や佐原への加虐行為を謝罪ないし反省した植野なのか?」という一点なのだ。もちろん、世の中というのは残酷で、いじめっこ世にはばかるという無情の世界を描くというのなら、反省もなく植野が将也をゲットするというのも有りな展開ではある(勧善懲悪でもないし)。しかし、単純に植野を応援している人というのは、そういう価値観を肯定しているということにもなり、だとすれば私としては軽蔑の対象だといってもいい。かなり邪推にもなるが、硝子の罪の方が重いという意見も含め、ひょっとしてそう考える人は、いじめという罪が、いじめられたことが遠因の一つとなって選択してしまった自殺という罪よりも軽いと考えているのでは? そして、そう考えたい境遇の人なのでは? とさえ思ってしまう。現実においては、硝子のような子の存在よりも、佐原が植野を友達だと思っていることよりも、やはり将也のように過去の罪を悔み続ける加害者の方がファンタジーなのかもしれない。そう考えないと、正直、私には宗教的な理由を除けば、硝子の罪のほうが重いだろうという論調を理解することができない。



 ところで、植野が将也と結ばれるという結末(そしてそれが植野にとって救済となる結末)を困難なものにしている理由は色々あって、まず第一に将也が植野を恋愛的な意味で受け入れるかどうかというのがあるが、植野側の問題としては、過ちに対して謝罪や反省をしていないことよりも、将也と結ばれるには「現在の将也」を好きになるか「かつての将也」を取り戻さないといけない、という点の方が大きいと思う。

 硝子に対するいじめを含めた加虐行為という罪に対しての反省/謝罪は、別に硝子を嫌ったままでも可能だと思う。むしろ「あなたに対してやったことや、あなたの内面を勝手に決めつけていたことは謝る。反省してる。でも、あなたが嫌いだってことは変わらない」という着地の方が、植野らしくて個人的には良いと思うし、「嫌い同士でも平和でいられる」というあの台詞を肯定的に決着させるのも悪くない締めだと思う。だが、植野は徹底して「かつての将也」が好きなわけである。端的に言って、今のまま植野の望みを綺麗に叶えるとなると、将也はかつてのやんちゃ坊主に戻らなければいけない。そして、現在の将也を好きになろうとするなら、そこにいるのは「命を賭けて西宮硝子を守ろうとする石田将也」なのである。はたして、硝子を嫌ったままでそんな将也を好きになることができるのだろうか。「かつての将也」だった現在の将也と、色々わだかまりを持ちつつ恋愛的な意味で一応の成就を迎えたとして、それが植野にとって救いとなり得るのか。そして、物語的に、他にも色々と描かれるであろう事柄がまだまだたくさん挙げられるなかで、植野のそんな心の変遷を残り少ない連載で本当に描き切れるのか。その後を想像することくらいしか、我々にはできなのではないかと思う。



 話は少し変わって、もう一つ『聲の形』をめぐる意見の中で、どうにも私が納得できない意見について考えてみる。「天使のように描かれる障害者としての硝子」といった意見に関するあれこれである。

 私個人は、本当に硝子が天使のように描かれているとするなら、それは「健常者による障害者への差別意識」を明確化するためじゃないかと最近思っている。つまり、硝子の人間的醜さを描き過ぎると、ナチュラルに障害者への差別意識を持った層が「差別されて当然のクソな人間性の障害者」だと言いだして、描こうとしているものがぶれるのではないかと思うわけだ。障害者へのナチュラルな差別意識というのは、植野の「ハラグロ(障害を利用して甘い汁を吸ってる的な偏見)」だとか川井の「西宮さんが障害者だからって無理に仲間に入れる必要はない」といった発言が象徴的である。こういった差別意識の発露を描いて読者をゾッとさせるためには、あまり硝子の人間的醜さは描かない方が効果的ではあると思う(ただ、硝子も充分に人間的な描かれ方をしていると思う)。

 「障害者=天使」という考え方に否定的であるということと、「障害者には気を遣い、大切にしなければならないという気運に反対する」という考えが直結している人もいるようなのだが、このあたりも私には分からない。そもそもバリアフリーは「障害者に気を遣っている」わけではなく「障害者が健常者と同じレベルで日常を送るため」のものであるし(この間、『笑う洋楽展』でみうらじゅんが「メガネはよりよく見ようとしてるのではなく、裸眼の人と同じように見たいだけだ」と力説していたのと同じである)、そこに障害者個々人の善悪は関係ない。囚人にも食事が与えられるのに、なぜ障害者であるというだけで日常が困難なままでいさせられなければならないのか(もちろん、バリアフリーといっても、技術的な問題も含め、すべての人間が同じラインに立てるかどうかはわからない。いや、たぶん不可能だろう)。そして、いくら嫌な奴でもすぐに手を出しちゃいけないわけで、それもまた「障害者だから気を遣え」というものではない。その辺りを短絡的に結んでいる人が植野推しだったりすると、さすが植野のリンチ行為を「わかる」と言ってしまう人だなあと、意地悪く思ってしまったりもする。

 また、以前『半沢直樹』における片岡愛之助の役どころに関し「おネエ言葉を使う人間はいやらしい人間だというレッテル貼りではないか」という意見を述べている人がいて、対して私は「別にそこは、もう必ずしもイコールでとらえる人は少ないのでは?」とブログに書いた(http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20130811)。フィクションにおける障害者の描かれ方が、「おネエ言葉を使う人」と同列で語れるかどうかはちょっと分からないが、しかし、障害者のダメな面を描かなければいけないこともなかろう。硝子に関しては、良い子には描かれているがそれ以上のものでもない気がする(むしろ天使過ぎるのは、前述の通り佐原だと思う)。また、一般認知はたしかに高くないかもしれないが、フィクションにおいて障害を持った悪人がいないわけでは決してない。ジャッキー・チェンの『ポリス・ストーリー2』でベニー・ライが演じた敵役あたりは結構有名だと思う。いずれ、映画『おそいひと』や友部正人の名曲「びっこのポーの最後」あたりと絡めて、色々考えてみることにしよう。


「そりゃあ あんたが行けば学生だって トップレスバーの女だって金を出すさ/でも それはあんたがイカしているからでも あんたのからだが不自由だからでもないのさ/ねえ びっこのポー あんたのやっていることは嘘ばっかりだ/あんたはただ死んだメキシコ人たちの手首をかわかして売っているだけだ」(友部正人「びっこのポーの最後」)

聲の形(6) (講談社コミックス)

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聲の形(5) (講談社コミックス)

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キース・リチャーズ、かく語りき

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イレイザー [DVD]

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半沢直樹 -ディレクターズカット版- DVD-BOX

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ポリス・ストーリー2 九龍の眼 デジタル・リマスター版 [DVD]

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おそいひと [DVD]

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“1976”

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 さて私は、どうせ『聲の形』信者/西宮硝子信者と揶揄され、気持ち悪い奴と思われることが分かり切っているのなら、いっそ更に気合を入れて挑もうと決意し、読む前には必ず身を清めたりするレベルにまでなっているわけですが、この作品ないし作者に対する信者的な態度に冷淡であることをアピールする人というのは、どんな作品でも当然のようにいて、『聲の形』に関してもそれらしき姿勢の方を数名目にしました。

 作品や作者に対する否定的な意見を一切認めない「信者」を好ましく思わないというのはわかるのですが、しかし、はたしてその人たちが「信者」としている存在は、本当にそういった「狂信者」的な者だけなのか。ひょっとして、単に自分の意見に否定的な者はすべて「信者」として撥ね除けているだけではないのか。「否定的な意見など、信者たちは聞く耳持たないのだろうが」などと言ってはいても、じゃあ、あなたは本当に「冷静に好意的な意見を述べている者」の声に耳を傾けているのか。考察のための冷静さを保つため、他の意見にはなるべく目を通さないと述べている人もいましたが、ではなぜ「他の意見になるべく目を通していない」はずの人が、信者的(?)な意見だけでなく、「単行本の収録はどこまでだろう」といった内容そのものではない考察に対して冷めた気分になっているのだろう。冷めるのは構わないが、わざわざ冷や水を浴びせるようなことを書く必要があるのだろうか。別に、その人たちのすべてが「『聲の形』に否定的な者はすべて消え失せよ」なんて言っているわけでもなかろうに。



以下、遊びネタ。


将硝どうでしょう(水曜どうでしょう×聲の形)第3話
 ※マガジンは水曜発売です。

 「シェフ西宮の復讐」(腐敗した生地で焼いた激辛のケーキを持参し、植野家に討ち入る硝子。おどろおどろしい書体で書かれた筆談ノートもあらかじめ用意)

硝子「どーも直花さん。知ってますよね? 西宮硝子です。ケーキ食べませんかぁ? 弟さんたちもおいで、ケーキ焼くよぉ。からいですか? おねえさんはね、直花さんからもっと辛い目に遭わされてきたんだよ。残さず食べてねえ」
植野「わかったから! 西宮さん、わかったから! あたしが全部食べるから!」
(『水曜どうでしょう「シェフ大泉 夏野菜スペシャル」』より)

[rakuten:enterking:10492702:detail]



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709

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http://tfm-campaign.gsj.bz/sol/smart/artist/sayoponi/140919.html
さよポニLOCKS!第50回

 ナタリー繋がり(?)で大好きなさよポ二のラジオ番組の宣伝。ポニーテールは髪型として好きなわけじゃないけど、硝子とあゆみんのポニーテールは正義。

魔法のメロディ

魔法のメロディ