映画作家・永束友宏に気をつけろ!

 『聲の形』最新話を読んで、あれこれ考えてみたりしようの回。第56話「登校」編(ネタバレ注意)。

聲の形(6) (講談社コミックス)

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 と言いながら、いきなり『聲の形』ではない別の話をしてしまうが、『さまぁ〜ずトークLIVE〜三村もいるよ!』にて、さまぁ〜ずの二人がそれぞれの「時間の使い方」的な話をしていた。神経質な面の目立つ大竹さんだが、待ち合わせなどの時間には、ギリギリの最短ルートのみを考えて行動するため遅刻が多く、逆に三村さんは、余裕を持って行動していたため、中学まで皆勤賞だったと言っていた(ただし三村さんは、大竹さんと会ってからなぜかだらしなさが感染し、元々の行動が遅めなうえに余裕を持って行動することもやめてしまい、遅刻どころか1時間目の授業すら間に合わないような人になってしまったらしい。曰く「亀が兎の性格を持って生まれた」)。私はというと、いまだに充分すぎるほどの余裕を持って行動する。どんな場合でも、予定時間の最低でも30分、できれば1時間以上の余裕を持っておきたい。実際、映画を観に行く場合も、目的の映画の上映開始40分前には映画館に到着していて、しばらくロビーなんかで本を読んだりしてる。上映開始前に一冊本を読み終えるなんてこともしょっちゅう。神奈川在住時、長期休暇等で北海道に帰省する際、空港に着くのは、大抵離陸の3時間前。それでいて、歩き回ったりはせず、ほぼ同じ場所に座っているという……まあ、時間を無駄にしている感も否めない。

 なぜ、こんな話をしたかと言えば、ようやく『聲の形』最新話に繋がるのだが、硝子が将也に送ったメールの内容である。硝子が指定した待ち合わせ時間は目的(映画の上映開始)の1時間半前なのだが、それを「あちこち回りたいという気持ちの表れ(デート的な楽しみ)」だと、他の考察ブログ等を読むまで私は気付けなかった。1時間半というのは、私にとって「目的の時間に間に合うための余裕」の時間と大差ないので、その1時間半がデート的な楽しみのためという発想に至らなかったのである。なんというか、自分の神経質ぶりと色恋的経験のなさに少々悲しくなってしまった。

 さて、今回は謎に包まれていた永束監督の映画『ビッグフレンドN』の全貌……とまではいかないかもしれないが、まあ「ほぼ全貌」と言えるものがようやく明かされた(すでに編集も含め完成していたわけで、考えてみれば、その後の事件があるからしょうがないことではあるが、将也の実質的な映画スタッフとしての貢献度って、とんでもなく低い。軍手とか買ったくらいだろう。クレジットはただの「協力」あたりが妥当かもしれない)。

 無声映画であることは、今さらだけれど、なんとなく予想できていた。勿論、将也が独白で感動していたように、硝子にも分かるように作られたということが大きいのだろうが、無声映画であることのメリットは他にもあって、単純に素人演技にありがちな、観ている側が恥ずかしくなってしまうような「台詞回し」を排除できるという点である。ブレッソンキアロスタミのような方法論を永束監督が持っているとは思えないし、お菓子で買収した子供たちに本格的な演技を求めるのは無理がある。まあ、キアロスタミに関しては、少年が泣くシーンを撮るために「その子のお気に入りの写真を目の前で破ってみせる」なんてことをしていたらしいので、映画作家としてはともかく、人間としてはどうかと思うわけで、そんな方法論を永束君にはとって欲しくない。『フレンチ・コネクション』のウィリアム・フリードキンは、わざと現場の空気を悪くして画面に緊張感を与えていたようだし、巨匠サミュエル・フラーには、嘘か真かピストル片手に「ぶっぱなされたくなかったら、トチらず演技しろ!」と怒鳴っていたという伝説が語り継がれているが、どちらも職業俳優相手とは言え、あまり良しとはしたくない。素人俳優相手なら尚更である。無声映画であることは、硝子が聴覚障害者であるということとはまた別に、素人俳優たちが演技する上でもベターな選択のように思える(再び、さまぁ〜ず絡みの話になるが、2010年に日本テレビ系で放送された、ドラマとコントの融合したような『主演さまぁ〜ず 〜設定 美容室〜』という作品に、まったく台詞のない二階堂君というキャラクターが登場する。何が原因で言葉を発せなくなったのかは描かれないのだが、この二階堂君を演じる牧野貴行さんは、「ホンモノ美容師」と書かれているように、撮影場所となった美容室の現役美容師であり、役者でも芸人でもないのである。それゆえに、「言葉を発せない」という設定になったのだが、主要人物の一人として、しっかり内容に関わってきているうえ、ドラマや映画、アニメ等全て合わせた、私が個人的に選ぶ2010年度ベストキャラクターでもある)。それらを踏まえたうえで、硝子が「キーパーソン」であることも加えれば、無声映画、ないし「音声」に頼らない作品になることは、ある種必然とも言える(無声映画以外で「音声」ないし「台詞」に頼らない映画となれば、実験映画、アート系映画ということになるだろうか。もっとも、現代において、短編で無声映画、しかも白黒というスタイルをとった段階で、実験的、アート的な印象は濃くなるが)。

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 さて、ちょっとここで、ずっと私の中でモヤモヤとしている「一途であればいいのか問題」(つまりは、植野に対する一部読者の反応に対する問題)について。

 以前、コーラル・キャッスルについてブログに少しだけ書いたことがある。「相手を一途に好きであり続けた男」が作った、謎多き珊瑚の城である。この城のオカルト的な面での魅力(どうやって作ったのか?等)に関しては、私はとても強く惹かれてはいるのだが、一方で「一途に好きであり続けた男の行為」という面では、サイコホラー的な意味での魅力は感じても、「純愛」だとか「切なさ」といった意味での魅力は感じない。幸いというべきか、この城の「創造主」であるエドワード・リーズカルニンは、愛しのスウィート・シックスティーン(彼は、婚約破棄された彼女のことをこう呼んでいたらしい)との生活を妄想し続けはしても(そして、そのための城を実際に作りはしても)、その後の現実の彼女に対して「魔の手」を伸ばすことはなかったようだ(リーズカルニンの死後、彼の“不遇さ”に同情した有志がスウィート・シックスティーンを探しだし、せめて墓でも参りに来てはくれないかと打診したらしいが、彼女の答えは「NO」であった。まあ、当然だと思う)。

 だが、リーズカルニンがもし、別の人生を歩んでいたスウィート・シックスティーンを探しだし、城に拉致でもしていたらどうだろう。城には、「お仕置き部屋」なるものが実際にあったそうだから、実際に手を出すことはなかったが、リーズカルニンの中にはそういった悪しき束縛性/攻撃性が潜んでいたことが想像できる。彼女の新たな相手にその攻撃性が向けられていても不思議ではなかったのかもしれない。そうやって考えていけば、このコーラル・キャッスルの物語が「美しくも切ない物語」なんかではないことがわかるはずだ。「美しくも切ないように見えるが、本質的には不気味で恐ろしい物語」である。

 言ってみれば、植野の行為というのは、スウィート・シックスティーンやその新たな相手に「手を出した」リーズカルニンのようなものである。主題や視点を変えれば『聲の形』は、「色々あった男女が再会して心を通わせていくところに、一方的な思いでその邪魔をしに割り込んでくる攻撃的なストーカー」の物語になりかねないのである。そうなれば、スティーブン・キングの書きそうなサイコホラーである(硝子の補聴器がなぜ片方しかなくなっているのかという謎や、その他単純な作画ミス、構成ミスなのかどうか判断しがたい謎まで含めて色々と追っていくと、『放送禁止』シリーズのような恐怖が見えてくるというような話もあった気がするが、あまりに大今先生が鬼……否・ラムちゃんなので、どれだけ今回のようにニヤニヤさせられるデートのような回であっても、先が不安になってしまうということも含め、どうも『聲の形』にはホラー的要素がこっそり紛れているような気がしてならない)。

 思い人を振り向かせるため、もしくは反応を見るために、その相手の周囲の者(特に親しい者)を攻撃、ないしそれに準ずる行為を行うことは、やっぱり犯罪と言っていいだろう。そうならざるを得ないほど思い悩むのが人間というものだと言われても、それを良しとするかどうかは別だろうと(そういう人間が登場する作品の多くが、なぜ「ホラー」となっているか考えてみるといい。ホラーでなければ、コメディになる)。感情を持つのが人間なら、それを理性で制御するのも人間だ。なんのための「社会」だ馬鹿者め、という気分にもなる。私だって、そうならないと断言はできないが、そうなったときは遠慮なく罰してほしいとは思う。そうなった時の私は自己弁護して、下手すりゃ喚き散らすだろうが、そうなっていない現在の自分は、そうなってしまった場合の自分を思い浮かべた時、擁護のしようはない。

ミザリー (文春文庫)

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放送禁止 DVD封印BOX

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 最後に、硝子が自分が周りを不幸にしているとしか思えなくなっている(自己肯定感の低さ)というのは、すなわち硝子が最も障害者という立場を卑下しているのでは? という指摘に関して。

 硝子が卑下しているのは「障害者」ではなく「障害を乗り越えられない自分」あるいはもっと単純に「周りを不幸にしてしまう自分」であると考えた方が自然だろうと思う。「障害者」であること自体をもっと意識しているのなら、いっそ開き直ってしまえるのだ。つまり「障害あるんだからしょうがねえだろ」という、障害者/弱者を叩きたくて仕方ない方々の理想の障害者像である(とても悪意のこもった言い方をしてみました)。以前も書いたが、硝子の母のこれまでのスタンスからして、障害は強くなれば乗り越えられるものとして教育されていたように思えるので、だとすれば、やはり硝子が嫌っているのは「障害者である自分」ではなく「障害や呪いを乗り越えられない弱い自分」だろう。

 さて、あんまり皆さんが「天使のような」とか言うから、「人間のような天使」の映画を2本ほど紹介しておく。『マイケル』と『天使とデート』。

マイケル [DVD]

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天使とデート [DVD]

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以下、遊びネタ


将硝どうでしょう(水曜どうでしょう×聲の形)第6話
※マガジンは水曜発売です。

(将也転落後の橋メンバーによる知られざる会話)
真柴「あー……どっかのバカがねぇ、西宮さんがいなければみんなハッピーだったなんてことを言うからだよぉ……そうでしょう?」
川井「あー……そうかそうか」
真柴「どっかのバカひとりとは言わないよ。バカふたりがだ。害悪害悪だとか石田君はいじめの主犯だっただのと騒ぎ立ててだよ。石田君は目覚めないし、西宮さんは廃人みたくなっちゃってるし……」
川井「!」
植野「いや、それはおかしーし。川井っちはともかく、基本的に西宮とかいうお姫様の落ち度だし。あいつの代わりに石田が落ちるってどういうことだよぉ!」
川井「あたしは事実を言っただけで、それをひっかきまわしたうえに、石田君と西宮さん追い込んで、しかも西宮さんに害悪害悪とか叫んで暴力まで振るって病室に籠城してるのは、どこのバカ女よ!」
植野「それをちゃんと止めなかった佐原とかだって何か言うことあるんじゃないの?」
佐原「……あたしはふたりとも怖かったよ」
植野「チッ……あたしはね、少しでも漫画が盛り上がればと思って、西宮さんはハラグロだと……」
永束「どういう盛り上がりだよ?」
植野「結果的に盛り上がってるだろ!」
川井「だからなおちゃんがこういう結果を招いてるようなことをしでかしてるからでしょ!」
植野「なに?」
川井「あやまれ!」
植野「なんだと!」
(『水曜どうでしょう「ヨーロッパ・リベンジ」』より)



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709