芸術家様ってゲスいね、性格がゲスいね(あーあー、気にいらねえー!)

 『聲の形』最新話を読んであれこれ考えたり感じたことを書き散らかしていこう。第58話「成果」編(ネタバレ注意)……なのだけど、今回は書きたいことというか言いたいことが山ほどあるのですが、基本的にそれは『聲の形』という作品そのものに対する考察でも感想でも批判でも賞賛でもないという……。なんと言いますか、「芸術家様」とか「職人様」みたいな人種の持つある種の傲慢さに対する憎しみのようなものですね、はい。

聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)

 今週の『聲の形』のテーマ曲は、大泉バンドの「負け戦」。あるいは、じゃがたらの「でも・デモ・DEMO」でもいいんだが。ええ、まあ奴のせいですよ、ストーリーアナリスト兼マルチエディターの刃々谷龍月とやらですよ。永束監督の映画が予選通過し、その公開選考会が第58話の主な内容で、この刃々谷はその特別ゲスト審査員なのだが……いや、奴のことから書くのは、なんだか気分が悪いので、まず先に、当たり障りのない感想を。



 川井が随分可愛くなったと思う。驚くべきことに。いや、いちばん変わったなあと感じるのは真柴だが、根本的な生態は大して変わっていないと思われるのに、印象は悪くない。この第58話は、テーマ的なことを大まかに言えば、「根本的な性格/生態は変わらずとも、それぞれが少しずつ成長/変化した様を描く」というようなものだと思われ、ゆえに映画は選考会において酷評で、その後、メンバーの間で醜い言い争いにも発展してしまうのだが、その言い争いは、他の方も指摘しているように橋崩壊事件のリフレインでありながら、どこか安心して見ていられるもので(正直、どうでしょうバカの私は、『水曜どうでしょう』における罵り合いに近いものを感じました)、最後はファミレスでの穏やかな場面で終わってくれた。だから、川井の印象が悪くないのも、成長/変化後を描くということから考えれば当然なのだが(前回においても、植野に比べると川井は、はっきり変化しているように描かれていた)、単に容姿的な好みのことを言えば、川井はメガネをかけている方が雰囲気が柔らかくなって良いんじゃないかと私が個人的に思っているからかもしれない。

 対して、前回では色々やらかしたことを真柴君を筆頭とした面々に「今はいいじゃん」と隠しておいてもらったこともあって、多少の心境の変化はあるだろうが、やっぱり他のメンバーと比べると変わってなさそうだよなあと思われた植野。予想通り、今回でも他と比較するとあまり目立って変化していないようではある(酷評後の永束に対する言いざまとか)。ただ、前回において、植野をかなり嫌っていた人の中からも、「可愛いとこあるじゃないか」「良いとこあるじゃないか」といった意見がようやく見られてきたように、私も今回、本当に、驚くべきことに、自分でも信じられないながらも、初めて、ほんの少し、ごくごく僅かではあるが、それに近しい感情をようやく覚えた(前回は、まだまだちっともそんな感情は芽生えませんでした)。言い争いが深刻になりつつあったのを、あえていつもの悪態をつくようなやり方で和らげたこと、そして、偶然とは言え、硝子の自然な笑いを引き出したこと……いや、主に後者なんだが、そこが大きな得点で、ようやく私の中での植野評価がマイナスからゼロ地点くらいには上がりました(『おにぎりあたためますか』の中で、大泉洋が珍しく残念さどころか、有益な結果を出した戸次重幸に「俺はお前を有害だと思っていたが、お前は無害だ」と言って褒めた?ようなものである)。まあ、不満はありますよ。選考会の会場でもファミレスでも、将也の隣に植野が座っているというのはまあ許すとして、しかし、硝子の隣に将也がいないのは気にいらねえ、と。将也の隣に座りたいなら、硝子との間に入らず、将也を挟むように座りなさい植野、と。でも、硝子の「けたけた」を引き出したことは手放しで賞賛したい。「けたけた硝子」かわいい。って、どれだけ硝子贔屓なんだと……。

 ところで、植野はまだ硝子のことを嫌ってはいそうだし、過去の反省もなさそうなのだけれど、植野も含め、映画メンバーの中に硝子がいることをみんなが「普通」に思っている風に描かれているのが嬉しい。硝子が喋ったからと言って、特別な目を向けたり、驚いたりすることもないし。できれば、このまま穏やかに……頼みますよ先生(哀願)。残りの展開で、ようやく抱けた平穏な感情がすべてぶち壊されるとか、もうそんなの心も身体も耐えられそうにありませんから(でも、すっごいそういうことが起きそうで怖い。予想が裏切られるのは構わないのですが、せめてもう少し優しく……)。



 さて、植野を本当に初めて「ちょっとは良いとこあるかも」と思ったのは、なんだかんだ言って、さすがの植野も少しは変化してきたということも勿論ありますが、それ以上に、今回は「もっと激しく嫌な奴」が出てきたからでもありましょう。いや、ホント、西宮父一家に次いで嫌いです、あいつ。私の個人的な経験に依るところも大きいですが、激しく憎悪します。はい、先ほど軽く触れました、ストーリーアナリスト兼マルチエディターの刃々谷龍月のことである(だいたい、なんだこの肩書きは。高城剛の「ハイパーメディアクリエーター」とか、絶賛ダメ人間時代の鈴井貴之が名乗っていた「ハイパーメディアパーソナリティー」とか、そういう類かね? まあ、鈴井さんはすっかり「みすた君」になってしまったが)。

 いや、映画が酷評されてしまうこと自体は、残念ながらしょうがない面もある。私達(正確に言えば、橋メンバーへの感情移入度の強かった読者)は将也の目線に立ち、彼らの背景の物語を知っているからこそ、すべての場面が感動的に映ったわけで、たしかにその背景を知らない、「ただ映画を観た者」にとって、何も届かない恥ずかしさすら感じる作品になっていたのであれば、それは「映画制作者(を志す者)」として批判されても仕方はない。自分にとって大事な相手からのラブレターは感動的だが、赤の他人が見れば、それは読んでいられないほど気持ち悪い文章であるということは多々ある。その点はどうしようもない。そして、その背景が作品の言い訳にはならないこと、そしてそれが(たとえ語った背景に嘘がなくとも)ただの言い訳だと思われてしまうことも、作り手の宿命ではあるわけで、反論していけないわけではないが、逃れることもできない。

 ただ、オナニーとしか思えなかった作品を批判することと、作り手が本当にオナニーをしているか、そしてそれを芸術だと勘違いしているような奴なのかを断定することは別である。だが、往々にして傲慢な「芸術家様」「職人様」はそれを断定する。この刃々谷は、最初こそ辛辣ではあれ作品批判であったが、後半は勝手な憶測によるただの人格否定であり(特に、真柴君に対する「眉毛が太すぎるせいで、話に集中できなかった」なんてのは酷過ぎるだろう)、しかも『聲の形』を見守ってきた側からすれば、その否定が誤りであることも分かっている。だが、こういう「芸術家様」「職人様」というのは、「人間の内面を深く描く」なんてことをバカの一つ覚えのように繰り返し述べているくせに、実際に目の前にいる人間の内面など理解できないどころか、このように勝手な憶測や類型で判断したりする。「俺はお前のすべてを分かっている」なんていう、それこそ「人間の内面を深く〜」とか「リアリティが〜」といった作品には登場し得ない超越者キャラのような全能感を勝手に抱いているのだろうか。陰謀論に引っかかるアーティスト、俗流世代論を無邪気に信じているアーティスト、ニセ科学に引っかかりまくりのアーティスト……例を挙げればキリがなくなるが、おそらく無関係ではない(逆に、やたらと「君は他の人間とは違うと会った時から思っていた」なんてことを言いだす輩もいるが、これは褒めているように見えて、根本的には「お前のすべてをわかってるオレ」を気取っているだけで、信用しない方がいい。有名になった者の周りに突然現われる、見覚えの無い親戚や自称・生みの親/育ての親と同類である)。

 刃々谷の言う作品の欠点は、単純な技術不足、経験不足、理解不足、知識不足……まあ、色々ありはするが、しかし彼の言うような「ナルシシズム」だけが、大きな原因ではないことを読者はわかっている(まあ、永束に多少、その気があるのは否定できないのだが)。刃々谷の言葉が不快なのは、酷評したからではなく、「見抜かれる」などと言っておきながら、ちっとも「見抜いてはいない」からだ。そうだと予想するのは勝手だし、後のアドバイスそのものは悪くなかろうが、この辺りはやはり「人間をしっかり見つめる」と言っておきながら、それが実はできていない芸術家にありがちな傲慢さだろう。最後の「正直に言ってみ永束君!」あたりからの流れは、なんというか上に立ってる者がその優越感に浸って楽しんでるだけだろう。作品が、身内以外に届かなかったこととは別として、1%も永束が刃々谷の言うような理由で映画をこのような形にしたわけではなかったとしても、聞き入れはしないだろう。それこそ、向こうには「作品に言い訳はいらない」という大義名分がある。だが、「作品に言い訳はいらない」ことと、本当に刃々谷が作り手の内面を見抜いているかは全く別である。繰り返すが、批判自体は構わない。しかし、「俺はお前のすべてを見抜いてる」みたいなことを平気で言う者は信用しない方がいい。「なんでも知ってる」臥煙伊豆湖じゃあるまいし、そんなことは基本的に不可能だ。その傲慢さに気付けない「芸術家様」の作る作品は、たとえ作品として面白いものであっても、そういう人間の作ったものであることが分かった瞬間に、残念ながら魅力は大きく損なわれる。その傲慢さは、芸術家/職人の容認すべき頑固さ、エキセントリックさとして捉えるべきものではないと思う(大人の世界では理不尽なことなんて沢山ある、むしろこの審査員向き合ってくれている方だろうという意見もあるだろうが、私はやはり刃々谷が彼らに向き合っているとは思わない。イカ天審査員時代の吉田建は、辛口でありつつも向き合ってはいたと思うが、こいつがその類だとは正直思えない。大人の傲慢さに加え「芸術家の傲慢さ」を感じる発言だから余計に腹立たしく感じるのだろう。それこそ、向き合ってるアピールをしているだけだろう)。

 さらに『聲の形』そのものからは脱線するが、作品に言い訳が通用しないという点は同意だが、先に言い訳をしておくことで評価されている作品というのも沢山ある。佐村河内事件などは、その典型である。佐村河内守の「音楽」を評価していたのなら、新垣さんのファンであり続けるのが自然な振る舞いであるし、その「背景」とは無関係に音楽を気に入っていたのなら、あの騒動も大した問題ではなかったはずである。しかし、あれだけの騒動になったのは、やはり佐村河内の「作品」の魅力が、その「背景」に大きく依存していたからだろう。芸術テロリスト・バンクシーは、監督映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』について「『クソのような作品をバカに売りつける方法』というタイトルにしたかった」と語っていたが、佐村河内のような騒動にまで発展したものだけでなく、いまだに受け手からも作り手からも「良質」とされているような作品の中にだって、「クソのような作品をバカに売りつける方法」を駆使して広められたものは、少なくないように思う。n次創作的な発展性などを考えれば、それも必ずしも悪いことではないと思うが、しかし、「作品に言い訳はいらない」としていながら、その実「言い訳を先にしておくことで、作品を広める」という行為を無自覚に行っている者も、たぶん大勢いて、なんだかこの「作品に言い訳はいらない」という批判も、「芸術」を崇高にしたがる者のただのあがきのように思えてくる(たとえば、「良質な日本映画」と映画好きの間で呼ばれそうな作品には、「良質な日本映画然とした雰囲気/作り方」というものが、既に言い訳として存在している感は否めない部分があると思う。「非商業主義的な雰囲気」というものを醸し出すことにより、何か深いものを描いていそうだ、批判すると軽蔑されそうだという印象を先に与えておくような作品の提示の仕方。巨匠と呼ばれるようになった作り手の作品には結構多いのである)。



 ついでですが、オナニー映画だからダメというのは、必ずしもそうではないと私は思っています。批評家から病的にナルシスティックと酷評されたハーモニー・コリンの『ガンモ』、そしてヴィンセント・ギャロの『ブラウン・バニー』(コリンとギャロは大変、仲は悪いようですが)、私はどちらも大好きです。特に、ヴィンセント・ギャロは、「ギャロ様」と呼びたくなるほどのファンです。何度だって表明しますが、エミール・クストリッツァの『アリゾナ・ドリーム』で、ビートルズの「Happiness is a Warm Gun」を口ずさむヴィンセント・ギャロに私は大いに惚れたのよ。『聲の形』はギャロ様の初監督作『バッファロー’66』並みの甘々なラストでも良いと私は思っています。だから、やーしょーは早くココアのラージとハート型のクッキーを硝子に買って行くべきだと(ついでに、ハート型のクッキーは「永束君の恋人の分」も買うべきだと。自分で食うなよ、永束君。彼女に渡すんだぞ)。

 ……結局、本当に『聲の形』の感想/考察ではなく、ただの刃々谷龍月批判でしたね。

南蛮渡来

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腹を割って話した

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終物語 中 (講談社BOX)

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イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ [DVD]

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ガンモ [DVD]

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ブラウン・バニー [DVD]

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聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709

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 呟き散らかしたこと。



 友人にそれなりの対価を払って録画しておいてもらった『ヨルタモリ』を受け取り、早速鑑賞。軽めの顎関節症で弱っていた顎をさらに痛めたが、後悔はしない。これは凄い。ちょっと泣いた。
マヌエル・デ・オルテガ氏は、遠目だとみうらじゅんにも見える。みうらさんもきっといつか出る。筒井先生とかも。あと、「タモリの弟」は、こないだの『笑う洋楽展』の「フレディ・ギャリティの息子」と匹敵する謎の衝撃。近年だと『主演さまぁ〜ず 〜設定 美容室〜』の二階堂君あたりと同系譜の視聴者を困惑させる謎のナイスキャラクター。

タモリ

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主演 さまぁ?ず ?設定 美容室? vol.1 [DVD]

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 2011年の暮れ近く、私が神奈川から北海道へ戻る際、映画学校同期の真子晃一君から餞別のような形で頂いた、PC用マイク。2014年10月現在まで、一度も使っていないという……。ちゃんと保管はしてあるのだけどね。ラジオ的なことをやってみようじゃないかと言っていたのだけど、脚本家として頑張っている真子君は、たいへん忙しいらしく、結局一度も実現していないのだった。いや、私もヒマなわけではないのだけど、真子君に比べればヒマである。でも一人でやる勇気はない。

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 セクハラ問題に関して「いい男に同じ事をされたり、言われたりしても問題にしないんだろ? それこそ差別だろ」みたいな意見がよく見られるのだが、その理屈は、「好きな相手の排泄物なら食える/好きな相手になら殴られても興奮するっていう人だって沢山いるんだから、誰にクソを食わせようが、誰を殴ろうがそれだけで犯罪にされるのは差別だ」みたいな話じゃないかと思う。

 みうらじゅんが「セックスにノーマルもアブノーマルもない。同意があるかどうかだ」と言っていたが、実際にムチで叩こうが、排泄物を食べ合おうが、本当に同意があって、それで二人が満足するのなら(健康的な問題は別として)、そしてあくまでその二人だけの間で交わされるのなら、問題はないはずである。合法的なSMバーはちゃんと存在している。もちろん、同意の拡大解釈、たとえば、レイプ事件の裁判等で「大きな声を出して抵抗していなかったら、同意と見られても仕方ない」というような判決が出されたことがあったが、それはむちゃくちゃな論理で、これが許されるのなら、命が惜しくて抵抗できなかった場合も同意になってしまう。セクハラ問題に関しても、仕事を円滑にやっていくために嫌でも耐えるしかないという状態が、何がセクハラであるかということと同様に問題なわけで、同意の拡大解釈的なことも往々にして存在しているが、それはそもそも「同意」なんかではないので、みうらさんの言葉に当てはまるものではないのである。その辺を「いい男だったら〜」という妙な理屈で正当化しようとする者は理解していないのではないかと。

 そもそも、なにゆえ、触ったり余計な話をしたりすることが前提になってるのかね。特に「触れる」方。普段の生活で、同性や家族にだって、そんなに「触れる」機会なんてないと思うのだが。