『聲の形』の『恋の形』的側面に関して私が思う、ひとつの事柄

 終わりが近いことへの寂しさと、この段階でとんでもない展開を描かれたら、本当に胃が死んでしまうという恐怖に苛まれながらも、『聲の形』最新話を読んで考えたり感じたりしたことを書き散らかそうの回。第60話「何者」編。

聲の形(6) (講談社コミックス)

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聲の形(7)<完> (講談社コミックス)

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 やめておけ、永束君!

 君に才能があるかどうかは関係ないんだ……あの世界は……あの世界だけは……。身体にも心にも、下手をすれば頭にだって悪い。どうしてもというなら、別の何か、ちゃんとした大学で、その分野のサークルに入るんだ。あの世界の専門はやめておくんだ……。考え直すんだ、ビックフレンド……。

 ……ついつい経験者は、硝子の上京に反対してしまった将也以上の勢いで、ビックフレンドの進路に反対してしまいました。いや、でも本当にやめた方がいいと思います。まあ、案外、永束君のちょっと(悪く言えば)厚かましくて自信過剰な感じは、あの世界でやっていくには合っているかもしれませんがね(山下敦弘監督が、映画監督に必要なのは「根拠のない自信」だと語っておられました)。

 しかし、第60話を含めても、残り3話であるというのに、硝子の顔が描かれないというのは、硝子信者としては結構不満な回でありまして、まったく本当に大今先生はラムちゃんだなあ(久しぶりにこの呼び方をしてみました)などと余計なことを考えたりしながらも、やけに可愛らしい結絃と前回とは打って変わって冷静さを取り戻して頼れる優しい兄貴然とした将也とのほのぼのしつつも、物語の終焉を感じさせるやりとりを感慨深く眺めたり、川井と真柴の空中戦に唖然とさせられたり(川井さんには、唖然とさせられっぱなしである。よく思い出してみれば、私は結構、川井というキャラは終始一貫好きだったかもしれない。植野が嫌いすぎて、ただ一人を激しく嫌って罵りまくるのは気がひけるから、一緒に攻撃対象にしておこう、という勝手な理屈で「バカ二人」なんて呼んでいたところが正直あります)、色々と「感じる」ことは多かった。ただ、「考察」めいたことをするには、少々完結前の宙ぶらりん感が強く、この物語について今あれこれ考えを巡らせるのは、まだ早いなあという印象(前話と違って、2ちゃんねる等で荒れるようなことも少なかったし)。まあ、この辺りが、一部読者にとって「普通の漫画になった」という印象を抱かせる点でもあるのかもしれない(これまでに何度も胃に穴をあけられそうになっているので、今さら完結に向けて多少「普通」の感じを出されたところで、私個人は『聲の形』を「普通の漫画」だとはどうしても思えないのですがね)。

 さて、『恋の形』というあからさまな漫画を買ったのか借りたのかは分からないが、「東京治安マップ」と一緒に自室に持ち込んで読んでしまっている将也は、ある程度のレベルで自身の硝子への恋愛感情を認識したのだろうが、それを認識したうえで「ようするに俺は西宮に行ってほしくないだけ/単なるワガママだ」と判断できるところに、将也が小学校時代にあれほどの悪行を犯しておきながら、いじめっこには死よりも苦しい罰をと望む私でさえ、応援したくなる主人公となった、その理由の一端が垣窺える。その感情を「ワガママ」だと思える将也なら、きっと硝子とずっと幸せにやっていくことも可能だろうと思えるのだ。

 これは、そのまま、なぜ私が最後まで植野を激しく嫌っているかということに繋がる。何度も言うように、植野は徹底して、恋愛感情が時として併せ持つ排他性/不寛容性/暴力性を強く露わにするキャラクターだと思う。観覧車での一件や、駐車場でのリンチ行為の際の発言に、多少頷ける点があっても、やはりその根本は上記のようなものであり、そもそも硝子や将也が、将也のカースト転落から硝子自殺直前のような状態になったことの大きな要因の一つが、他ならぬ植野の恋愛感情の暴走なわけで、そんな「あなたのことが好きだから私のことも好きになれ/邪魔をする者は排除する」という脅迫めいた行動原理の人間を「好きになったら、感情が暴走していくのはしょうがないよね」といった理屈で許してしまうことは、私としては最も忌むべき感覚である。そして、(前話や前々話の雰囲気を見れば、さすがの植野も多少は思うところあっただろうと察せられるが)このような恋愛の暴力性に無自覚なままの者が、意中の相手と結ばれたところで、添い遂げることはおろか、平和的に別れることすら奇跡に近いように思う。そんな展開は、正直、将也が反省したことよりも、硝子が良い子過ぎる(と思われている)ことよりも、佐原が植野を友達だと思いつづけていたことよりもファンタジーであると思う。「そういう気持ちになってしまうのもわかる」ということと「それはワガママである」は別である。「わかる」けれど「ワガママ」なのである。エスカレートして、相手や他者を攻撃するようになったら、もうおしまいである。

 感情のみによって導き出された結論で幸福な結末を迎えるには、運を味方につける他ない。そういうことである。

 そんな「色恋」に関してかなり冷淡とも言われる私だが(幸せそうなカップルを見て「はぜろ」とも思わない。幸せなら、それはそれでいいと思う。微笑ましいと思う時さえある。過剰な束縛や他者への攻撃がなければ、もうなんだっていいのである)、将也のたびたびの「殺し文句」は結構好きである。ただ、将也の本編中最後の殺し文句は「俺の髪が元気なうちに(理容師になって)帰って来てね」ではないかと予想している。

 追記:どうでもいい話だが、『恋の形』の表紙の男の子?が佐原さんに見えてしょうがない。

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 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709