終わってしまいました。というわけで、『聲の形』を読んであれこれ考えたり感じたりしたことを書き散らかす回。最終話「聲の形」編(ネタバレ注意)。ついに最終話です。はい。
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幸せになりやがれ、お二人さん!コンチクショウ!
大声で手話も交えて、なんなら横断幕みたいなものにでっかく書き記したりして、しっかりとあの二人に伝えてやりたいですね。人類最強の赤い人の言葉じゃありませんがね、あの二人の物語の結末です。「王道で行こうぜ、王道で。そんなとこで奇ィ衒ってどうするんだよ。普通に終わらそう、普通でいいんだよ。何事も普通が一番だ。やーしょーみてえな不幸な奴と硝子ちゃんみてえなかわいそうな奴とのおしまいなんだぜ――ハッピーエンド以外は認めねえっつーの」(@西尾維新『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い』。そういえば、この作品の帯は「ぼく達は幸せになった」でしたな)です。手を繋ぐお二人さんの姿を見て、わたしゃ、二人(当然、将也と硝子のこと)の間に生まれた将也そっくりの子供が、遊びに来ていた植野に対して「大きくなったら、直花姉ちゃんと結婚する!」と発言し、植野を含めた一同が様々な意味で凍りつくも、鈍感・将也だけが何も気づかずに息子の頭を撫でながら笑っている所まで妄想しましたよ。
しかし、感動よりも何よりも、まず第一に「ようやくホッとした……」というのが正直な感想。悩み事や心配事が解決した時の心境とほぼ同じ。「人間ドッグでどこも悪いところが見つからなかった時、みたいなっ」です。だって、第6巻収録分の展開なんて、痛々しくて見ていられなかったですからね(黒髪回とか委員長回とかは除く)。本当に安心しました。これでもう大今先生を「ラムちゃん(=「鬼」の意)」と呼ばずに済みそうです。しかし、見開きの硝子の愛らしいこと……。こんな硝子を見たくて、ずっと連載を追ってきたと言っても過言じゃない。幸せにおなり。っていうか、やーしょー、おめえさん、今度ばかりはしっかり硝子の手の感触を楽しみやがったんだろう? 羨ましい奴め。柔らかかったんだろうなあ、畜生……(隠しきれない変態性が滲み出てきたので、これ以上は自重)。
さて、肝心の内容に関してだが、硝子・佐原・植野の上京3人組が、仲良くやれていそうなところが、なんとも感慨深い。かねてから、「植野と硝子は親友になれるはず」といった予想が各所から聞こえていて、私自身、そうなれたら良いだろうなあと当初は思っていたが、観覧車での一件はまだしも、駐車場でのリンチや植野回の独白で「そんな大層なことは考えてなかった」ことが発覚してからは、ほぼこの予想に関しては諦め状態で、むしろ早く縁を切ってほしいとさえ思っていたのだが、ギリギリで、首の皮一枚のところでなんとか繋がりを継続できたようだ。将也にしても硝子にしても、植野との関係が、それなりに良好であることが、水門小の同窓会に顔を出すことのハードルをかなり下げていると思う(そういえば、他の考察ブログでも話題になっていたが、水門小同窓会は、おそらくモブ同級生たちにとっては驚きの連続であろう。ひょっとしたら、自分の至らなさに打ちひしがれてしまう名も語られぬ同級生が何名か現われる危険性も……。なにせ、不登校だった佐原がスーパーモデル状態なうえに社長で、しかも植野を従えていて、モテそうにはなかった広瀬が子供までできていて、虐げたはずの将也と硝子が幸せそうなカップル状態。「自分は何をやってたんだ……」と思う奴が出てきても不思議ではない気がする)。
ところで、この「硝子と植野は親友になれるはず」という予想の理由として、植野が硝子の最大の「理解者」であったから(硝子の手紙にもあるように、植野が硝子の「問題」を見抜いていたから)、という意見が結構あったのだが、これに関しては、私はちょっと違うのではないかと思っている。はたして、植野は硝子の「理解者」だったのか? 本当に硝子の「本質」を見抜いていたのか?
「見抜く」という言葉を使うと、それこそ佐原・植野のセンスをちっとも見抜けていなかった刃ヶ谷センセの「批評」から感じた嫌らしさの話にもつながるが、完璧に100%、特殊能力でも使ったかのように「見抜いて」いるような印象を持ってしまうので、「見抜いた」とは言いたくないし、思えもしないのだが、動物的な勘のようなもので、硝子が「呪い」に囚われていることの原因のひとつを嗅ぎ取っていたことは確かであろう。ただ、植野は動物的勘は優れていても(そこが優れているがゆえに?)、残念ながら理性的とは言えない性分で、なぜ硝子がそういった問題のある思考に至ってしまったのか、といったことは一切考慮されていない(そもそも、将也復活前の植野には「考慮」という概念が欠けている。ただ、だからこそ、硝子自身さえはっきり自覚できていなかった問題を、若干誤った観点からではありつつ、嗅ぎ取ることができたのかもしれない)。
うまい例えがあまり浮かばないが、ちょっと車で例えてみる(車の話というのは、個人的には大嫌いなのだが、最後まで「嫌いなキャラ」であり続けてくれた植野に関する話には妥当かもしれない)。車の調子が悪い時、車に関する知識がないと、どこが原因なのか、何が起きているのかは分からない。だが、植野は上記のように動物的勘は優れているので、なぜか問題のある箇所が分かってしまう。しかし、そこに問題が起きた原因が自分の乱暴な運転であることは考えず、また対処法も知らないので、憂さ晴らしに故障個所をボカボカ殴ってしまう。これが、おそらく、第61話に至るまでの植野の思考/行動パターンではないかと思う。
だが、皮肉なもので、佐原は植野に対し、「なおちゃんは人の気持ちを無視しすぎる」と非難し、それは確かにその通りなのだが、人の気持ちを無視しすぎる植野だからこそ、問題点そのものを嗅ぎ取ることはできたのだとも言える(将也や佐原は、硝子を理解しようと寄り添い、支えていこうと心がけ、実際支えにはなれていたのだが、それによって硝子自身の闇を見落としたとも言える)。これは、ひょっとしたら小学生時代から続いてきたことであり、観覧車での植野の発言が、将也転落後の「葛藤」によって導き出されたものではなく、「葛藤」によって自分の当時の感情の理由に気付けたということであれば、そうせざるを得なくなっていた硝子の気持ちは無視しているが、硝子の「処世術」(で何が悪い、とは今でも思っている。将也が現われてくれなければ、そうやって生きていかざるを得ないような社会であるし、そうさせているのは、それが「処世術である」というだけで非難するような奴らだと思う。彼らは、直接的暴力はしないまでも、善意や正義の皮を被って静かに抑圧してくるわけであり、ある意味、かつての植野以上に硝子にとっては「害悪」な存在だ。考えてみれば、川井だって「処世術だからいけない」なんてことは言っていないのである)が結果的に招き得る他者の不幸を本能的に嗅ぎ取ったのかもしれない。寄り添いすぎることで見えなくなりがちなものを、植野はおそらく感じ取っていたのだろう。しかし、これをいわゆる「理解者」という言葉に当てはめるのは、やはり抵抗がある。仮に、細木数子あたりが本当に「能力者」だったとしても(本当に全て「見抜いて」いたのだとしても)、おそらくそれを「悩める者の理解者」だとするのは無理だと思う。問題点を見抜いたことと、その問題点を解決するための適切な行動をとれるか/とるつもりがあるか、というのは別の話である。
こうやって考えていくと、最終回において、硝子と植野の仲が割と良好に見える(見る人からすれば、ある種の親友のようにさえ見えよう)のは、植野が将也に次ぐ硝子の「理解者」だったからというよりは、それぞれの掛け違えたボタンが、ようやく少しばかりバランスがとれたということなのではないかと思う(この辺りの問題に関して、植野依りな意見の中で、「植野は人のために怒ったり泣いたりできる人間で、そういう人間は信頼できる」というものがあったが、これにはもっと激しく異を唱えたい。また西尾維新の話になるが「赤の他人のために感情を発揮できる人間はね、何かあったときに他人のせいにする人間」という言葉が『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』で出てくるのだが、基本的に文化祭までの植野は、この言葉の通りだったように思う。だが、同時に植野は、硝子への暴行後に「殴らないと気が済まない性格なのかも」という自己分析をしており、これは硝子への暴行が、将也の為でも硝子の為でもない、ただの自分の憂さ晴らしかもしれないということにも繋がっているだろう。以前も述べたが、この暴行や独白回で、激しく植野を嫌いつつも、盛り上げ役のキャラクターとしては面白いし好きだと思える程度で済んでいたのは、植野が基本的に「自分の為の行動」であることを認めたくはないのかもしれないが、どこかで自覚している節があったからかもしれない。もし、徹頭徹尾、その行動を「他人の為」だと考えているようなキャラクター、つまり「人のために怒ったり泣いたりできる人間でしかない」のだったら、もっと激しく私は嫌っていたはずである。下手すりゃ「はやく死んでしまえ」くらいの乱暴な気持ちになっていたかもしれない)。
なんだかんだ嫌いだと言いつつも、考察しようとすると、結局植野絡みの話になる。植野を激しく推す人の中には、活躍が中途半端だった、ただの咬ませ犬だったというような意見もあるが、私は充分に重要キャラクターとして描かれきったと思う(逆に、川井って一体なんだったのか? という思いがある。川井の必要性はともかく、「川井回」の在り方が、ね。いや、嫌いではないのだけど。いずれ、川井回に関しては、読み直して考えてみたい)。身長181cmでイケメンのファッションブランド社長から求婚(?)されているようだし(まあ、そのお相手は佐原さんでしたが。しかし、佐原がもし同性愛志向をかねてから持っていたのだとしたら、将也ってずっと佐原にとっては恋敵でもあったことになるのだな)、色々ありつつも植野は幸せになれるだろうし、ようやく少し応援もできる……かな。まあ、たぶん……。植野がもし不幸になったら、硝子が悲しみそうだし。
コネタ的な話に繋がっていったので、一つ少々気になる点。永束君のことである。永束は今でも将也や真柴を巻き込んで映画制作をしているようなのだが、この点から考えると、ひょっとすると当初の希望進路であった「映画の専門」には進まなかったのかもしれない。専門だと、大抵スタッフも出演者も学内の者になりがちであるし、この映画制作が「映画の専門学校」での実習なのだとしたら、将也の「審査員の人に〜」という発言も微妙に不自然に感じる(実習作品を講評するのは、基本的に「審査員」ではなく「講師」である)。なんとなくだが、どうも永束は、「映画の専門学校」ではなく、映画/あるいはそれに準ずるコースのある芸術系大学、または普通の大学内の映画サークルに身を置いているのではないかと思う。真柴の「売れない監督の専属役者になってしまう」という発言も、永束が既に学校とは関係のない形で映画制作を進めていることを匂わせている気がする(真柴君、山下敦弘監督にとっての山本浩司や山本剛史になりつつあるのね)。まあ、経験者からすれば、そちらの方がいいと思う。永束が進路を公言した時、激しく反対したしね。
映画といえば、ひょっとしたら「映画」という形になるかもしれない、『聲の形』アニメ化企画進行中の話題。難しい題材なわけで、どうなるか不安の方が大きいですが、楽しみではあります。個人的な希望スタッフは、監督:新海誠、脚本:木皿泉です。新海作品は、『ほしのこえ』(あ、「こえ」繋がりだ。今気づいた)はともかく、それ以降の作品を観ると、脚本を誰か別のいい書き手に任せればいいのになあ、あるいは原作付きでやればいいのになあ、と思っていたもので。
で、アニメ化となると、また主題歌(テレビアニメならOP、ED)の話も出てくるのだが、こと映画に関してはエンドクレジットマニアでもある私、ファンの方々の様々な意見(あの曲がいい、この曲がいいといった)を見ては、大抵、畏れ多くも、そして身の程のわきまえず「どいつもこいつも、まったくわかっちゃいねえ!」と青筋を立ててしまったりしています。いや、この辺りのセンスというのは、対立を招きやすいものでありまして、私がこれから述べる意見も、一意見として「美月はわかっちゃいねえ!」と憤慨してくれてまったく構わないのですがね。しかしながら、繰り返します通り「エンドクレジットマニア」でもある私、ここに関してはかなりこだわりがあるもので……。ただ、この話をすると、『聲の形』の映像化に関しての話にはとどまらず、映画、アニメ、テレビドラマ全てを含めた「音楽の在り方」「主題歌の在り方」という話になっていくので、これは次のエントリ(水曜の更新)で、それこそ青筋立てつつ真剣に書こうと思います。
さて、こうして最終回に関する感想・考察をだらだらと書き綴ってみたわけですが、どうにも「まだ書き足りない。けれど書き進められない」という思いです。冷静に全体を通して考え直すには、もう少し、時間が必要なのでしょう。しばらくは、余韻に浸りつつ、信者的に将也と硝子の未来をあれこれ想像したりしてみようかと。成人式までの2年に何があったんだ、おいこの野郎、みたいなことも含めてですね。で、今後ですが、しばらくは、以前のような無益駄文か、前回書いたように、好きな俳優に関して少しばかり考察するシリーズを始めてみようかと思っています。『聲の形』ファンのフォロワーさんからご提案頂いた「全部読み終えた今だからこそ思う、過去回の感想」は、12月17日発売の最終巻を購入し、1巻から改めて読み直してからにしてみようと思っています。一体、どれだけの方が読んでくれているのか分かりませんが(どれだけ、というか、そもそも存在しているのかどうかすら怪しいですが)、もしいらっしゃるのでしたら、どうもありがとうございました。万が一、最初の『聲の形』のエントリからずっと読み続けているという方がいるのなら、もうそれは、とても奇特な方だと思います。そのせいで、何か大事なものを失っているような気がしますが、私には責任持てません。「何が起きても全て自己責任だからな」。
前述の通り、次回のエントリでは、『聲の形』も含めた、映像作品における音楽、特に「主題歌」の在り方について、暑苦しく書き散らかす予定です。暑苦しすぎるので「他人に音楽センスをとやかく言われたくねえよ」という方は、決してアクセスしないようご注意ください。そして、12月17日発売の単行本最終巻を購入後は、1巻から改めて読み直したうえでの「総論」みたいなものを書こうと思っています(オマケ的に、ツイッターで『聲の形』ファンの多くがフォローして楽しんでいる「聲の形コピペbot」についても何か書いてみようかなと)。まあ、その頃には、『聲の形』のことを忘れる人はいなくとも、私のことを忘れている人はたくさんいると思うので、幸か不幸か「そういえば、美月とかいう硝子信者が総論書くとかほざいてたな」という記憶を頭の片隅からほじくり返してしまった方は、お暇でしたら目を通してみてやってください。では、「また」。
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『聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
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