呟く勇気

「思考の裏っかわしのどっか片隅で、常に世間様は冷ややかだと考えてたら、脳ミソがチーズとタマネギの塊だね。でも、それってバーガーでもサンドウィッチでもなく冷めたピザ? どんな案件でも清潔に、2度は考え直してる。でも脳ミソがチーズとタマネギの塊だから、世間様は冷ややかなまま」

 特に意味はありません。はい、こんにちは。



 「クソリプ」の定義も分かっていないし、そもそもリプ自体滅多に来ないし飛ばしもしないのだけど、不快にさせられたリプって、今のところ2012年にしか来ていない。2012年は、ツイッターだけでなく、私の人生そのものにおいて、何かに憑りつかれているのかと思うほど最悪の年だった。いったい、なんだったのだろう2012年。

 さて、ツイッターのみならず、このブログにもコメントなんてものは滅多に来ないわけで、寂しくもあるが、面倒なコメントに悩まされることもないという意味では幸いしている。このブログにコメントをくれる人は、大抵リアルにせよネット上にせよ、それなりに長く付き合って来た方々だというのも影響しておりますが。

 ただ、かつてmixiでも同じように書き散らかしていたのだが、その時は、あのSNSの特性もあって、こんな世界への影響力の乏しい人間の日記にも、割と面倒なコメントが書き込まれたりした。まあ、自分が書き込まれる分には、最悪、コメント欄を閉じたりなんだりしてしまえば済むことなので、さほど深刻に考えることもないのだが、ああいうコメントを(自分のブログ等だけでなく、他者のブログ等でも)見かけるたびに、「コメントする勇気(あるいはリプを飛ばす勇気)」というものが、自分の中でどんどん失われていくのをはっきりと感じる。

 前述の通り、自分がされる分には、(たとえ自分の記事内容の方に非があったのだとしても)いざとなればぶった斬ってしまって構わないのだから、そう深刻になることはない。だが、自分が(そんな気はなくとも)面倒なコメントやリプをする側になってしまっていたら……と考えると、そうそう気軽にコメントやリプはできない。自分以外にコメントやリプをする者がほとんどいない、いても数名くらいのものであれば、コメント/リプする頻度に気をつければ何とかなりそうだが、割と数の多いところだと、「この中の“面倒な連中”と一緒になるのは嫌だなあ」という気持ちが先に来る(もっとも、芸能人レベルの知名度になれば、また話は違ってくるかもしれないが)。「煙たがってるの察しろよ、空気読めよ」とか思われてたら嫌だし、せめて「そう思われているかもしれないな、と内心びくびくはしてますよ」とだけは言っておきたい。読者の少ないブログで言ったところで、どれだけの効果があるかは疑問だが。

 それにしても、私みたいな者に対して、直接コメントやリプをしてくる人というのは、その内容が嬉しいものであっても不快なものであっても、ある意味尊敬に値する。私は私みたいな者にコメントやリプをしたくない。そっと遠くから観察するだけにしていたことだろう。面倒くさそうだもん、私。

 ところで、一色伸幸さんが「Twitterは、ラジオで話すぐらいの感じ。FBは、知人の多い飲み屋で話す感じ。だから、ツイートしたことをFBにコピペしたり、FBに書いたことをTwitterに転記するのは根本的に違うと思う」と呟いていて、ああだから私はフェイスブックは苦手なんだなあ、なんて思ったりしたけど、私このブログにツイッターで呟いたこと転載してるな……。ツイッターの方が、メモ代わり的に思いついたことを即書き残すのに向いているので、そういった呟きを後でこちらにまとめているわけなんだけどね(いまだにガラケーのせいもあるけれど、ガラケーから呟くのは簡単なのだけど、ブログを更新するのは面倒なの。で、紙のメモは咄嗟に書いたものはなくす危険性高くてね。あと、ツイッターだと、運が良ければメモ的呟きへの反応も窺える)。

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 呟き散らかしたこと。



 大抵の映画、漫画、小説、ドラマ……その他あらゆる物語の主人公に対してかけたい言葉が「無理すんな」の一言であるという、腐れ縁の某お嬢が、『男はつらいよ』シリーズを観たうえでの感想は「だったら帰って来るな」の一言でした。『男はつらいよ』、嫌いではないけれど、寅さんって憧れはしないし、親戚にいてほしくもない。あちこちフラフラしてるのなら、どちらかといえば滝伸次(渡り鳥)の方が……。日本の至るところに浅丘ルリ子がいた、あの時代。


 同期の星・真子晃一先生の小説家デビュー作『コズミックアライブ』、密林にも登場。

コズミックアライブ (オーバーラップ文庫)

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