硝子がつばきちゃんのような意味での「物語の象徴」でなくてよかった。

 2月7日から、東京・青山のギャラリーGoFaで開催されている「-聲の形-完結記念展 大今良時原画展」。魅力的な催しだが、時間的/経済的余裕の問題から私は断念せざるを得なく、ツイッターのタイムラインに流れてくる幸せそうなレポートが目に入るたびに悲しい気持ちになってしまう。

 もっとも、仮に時間的/経済的余裕があったとしても、中期将也並に他人に×印をつけて生きているような人間の為、他のファンの方とすれ違うことすら憚られるので参加できません。ゆえに、皆さん、安心して楽しんで来て下さい。私が行くと他の来場者が不幸になる。好きなもののイベントほど行きにくい。嫌な思いしたくないもの。

 これは、前述の通り、ひょっとしたら中学からの将也(CDに関する件なんか特に……)、あるいは「諦めていた時の硝子」みたいなものかもしれないが、ファンイベント的なものとか、ライヴでもそうなのだけれど、嫌な孤独感に苛まれることが多くて私はかなり苦手である。割とアイドルファンなのに一度もライヴやイベントに足を運んでいないのもそのせいだ。そして、そういった姿勢を「愛が足りない」とか言われる空気がまた辛い。

 ツイッターで原画展の感想が目に入ってくるのも、行けない身として辛いのは確かだが、それ以上に辛いのは「『聲の形』のファン仲間」みたいな言葉を目にする時である。こういった言葉を目にするたびに、時間的/経済的余裕があっても、私が足を運ぶことはないだろうなと思ってしまう(ある意味、そういった余裕がないことで、気持ちよく諦められているという面もある)。

 私は『聲の形』のファン、あるいは信者ではあっても、「『聲の形』のファン仲間」という輪には基本的に入っていない。「仲間」の方々も私を入れようとは思うまい。実際、ツイッターでも『聲の形』絡みで数名の方と相互フォローにはなっているものの、ほとんど交流はないし(迷惑に思われると嫌なので、私からリプを飛ばすこともほぼない)、『聲の形』関連のブログで最も知られていると思われる、「なぞ解き・聲の形」でも、コメントしたのは2、3度だったはず(ずいぶん勇気を奮ったものだ)。

 『聲の形』に限らずだが、「輪に入る」どころか「輪の傍に近づく」ことすら苦手な者は、どんな形であれ、繋がりが強そうな輪が出来ている雰囲気を感じると辛くなる。現場で初対面でありながら、ファン同士ということで盛り上がりはじめる方々を見て疎外感を感じつつ、そっと(満足に展示物を見ることもなく)退場する自分の姿が容易に想像できてしまう。実際に何度かそういう経験をしている。

 「こんな面倒な精神状態のヤツが無理をしてその場に足を運んで、空気を悪くするわけにもいかない」という思いもある。かなりしっかり女装したりすれば何とかなりそうな気もするが、「しっかりした女装」をするには私一人の力では無理である。以前は、ある人物の力を借りていたのだが、現在は所在地が離れてしまっている(以前、発案した「ボーイ・スイーツ・ガール」も同じ理由で最近は実践できずにいる)。

 まあ、こんな面倒な性格だからこそ『聲の形』という作品に惹かれたのだけれど。



 ところで、『聲の形』を読みだしたきっかけは、内容や「問題作」といった触れこみではなく、たまたまネットで見かけて絵が気に入ったから、正確に言えば「小学生の硝子に一目惚れ」したからなのだが(逆に、ツイッターで見かけた意見の中には、「絵は苦手だった」という人も結構いた)、最近になって、この「小学生硝子」が「つばきちゃん」にちょっと似ていたからかもしれないと思った。

 「つばきちゃん」とは、別に私の初恋の相手というわけではなく、『クレヨンしんちゃん』の劇場映画シリーズ第12作目『嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』(2004年)のヒロインのことである。たぶん、ああいう雰囲気の子が単純に好きなのだ。

 『カスカベボーイズ』は、ちょうど一人暮らしを始める前夜、つまり実家での最後の夜にテレビ放送されていたのを鑑賞したため、個人的にもかなり思い出深い映画である。正直に言うと、観るたびに泣いている(ついでに言うと、この『カスカベボーイズ』を鑑賞すると、しばらく良い事が起き易いという個人的なジンクスがある。そういえば、自分史上最悪の年であった2012年は、この映画を一度も観ていなかった)。しかし、映画の道に進もうとしていた(進学もそれ関連)のに、実家で最後に観た映画がこの作品(この映画の大きなテーマは「映画を終わらすこと」だと思う)だったというのも、なんだか運命的な気がしてくる。後に私は、「映画だけは、もうやらん」ときっぱり諦めることになるのである。

 『カスカベボーイズ』に関しては、ずっと、どれだけ長くなろうとも思いの内をしっかり書きたいと思っているのだが、『聲の形』以上に冷静ではいられない作品なので、公開から10年以上経った今も成し遂げられずにいる。若干ネタバレになるが、「硝子には幸せになってほしい」と願い続けたのは、この作品における、つばきちゃんの切なすぎる終わり方のことが影響していたのかもしれない(昨年発売されたニンテンドー3DS用ソフト『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ カスカベ映画スターズ!』で、しんちゃんとつばきちゃんが感動?の再会を果たしているのだが、このある意味オマケというかファンサービスに過ぎないような演出でも涙ぐんでいたくらいである)。完成度という点では、名作の誉れ高い『オトナ帝国』や『戦国大合戦』、あるいは初期の傑作『雲黒斎の野望』や『ヘンダーランドの大冒険』よりは劣るのかもしれないが、『クレヨンしんちゃん』の映画シリーズの中で一番好きな作品だ。

 まあ、こうやってファン層の被っていなさそうな作品(今回は、まだマシな方かも)を繋げて考えがちなところが、私が「輪」に入りにくい/入れてもらいにくい大きな要因だったりもするわけですがね。


聲の形(1) (講談社コミックス)

聲の形(1) (講談社コミックス)

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聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709

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 呟き散らかしたこと。


 

 みうらじゅんさんが「額に変態という文字を貼ると、誰も話を聞かないし、もめごとにもならない」と言っていたので、ツイッターも全アカウントのアイコンの隅に「変態」と表示されていれば、どんな不快なツイートも気にならなくなるんじゃないかと思い、最近は脳内でそういうデザインに変換している。なので、いずれ自分のアイコンの隅に「変態」という文字を入れておこうと思う。世界平和の為に。

 「額に変態という文字を貼れば、何を言ってももめごとにならない」。そんな、みうらじゅん氏の発言を受け、平和にツイッターを利用する為、私の目にはほぼ全てのアカウントのアイコンの片隅に「変態」という文字が見えています。私をリムってもブロックしてもアイコンが見える限り変わりません。

 あくまで私の脳内に限った話ではありますが、自分のアイコンに「変態」の文字を入れられたくない方は、アイコンを私の好きなキャラクターに変更すると良いです。たとえば『聲の形』の硝子がアイコンだと、「変態」という文字を置くことは出来ませんでした。

 今なお、私にとっては基本的に憎悪の対象である『聲の形』の植野でも、「変態」の文字を置けば許せるかどうか、ちょっと実験してみた。少しだけ許せそうな気がしてきた。
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