彼女や彼らの「ロック・ミー・アマデウス」な形の『聲の形』

 「完結した今、改めて『聲の形』を読み直して感じたり、考えたりしたことを綴ろう」第三回。今回は、アマデウスな硝子とサリエリな植野の話と、将也復活後の展開に関して。一応、ネタバレ注意。



「あなたは不公平だ。理不尽で残酷だ。あなたの思いどおりにはさせない」(映画『アマデウス』より)


 前回の『聲の形』と「犬と猫」のイメージの話とも繋がるが、神(救世主・将也)からの愛をなんの努力もない(ように見える)まま受けるアマデウス(硝子)に嫉妬する植野(サリエリ)……という話は、どこかで既に出ていただろうか? 将也(=神/救世主)、硝子(=モーツァルト)、植野(=サリエリ)という仮説を立てて、少し考えてみる。

 映画『アマデウス』でのサリエリによるモーツァルト殺しは、聖書におけるカインによる弟・アベル殺しの再現的な意味もあって、サリエリの自殺未遂によってついた首の傷がカインの額に押された殺人者の烙印に対応している。仮に、同じようなことが『聲の形』にも当てはまるとしたら、どうなるだろう。『聲の形』で目に見える傷といえば、硝子の耳の傷、将也の母の耳の傷、そして将也の尻の傷(凹んでるらしい)だが、これらはたぶんアベルの烙印とは対応していない。アベルは殺人者の烙印を押されたまま生き続けることになったが、これは植野の将也昏睡時における悪行が仲間たちに知られていることそのものと対応してるんじゃないかと思う。いつ神に知られるかわからない傷。これが植野にとってのカインの烙印だろうか。

 植野単体で考えると、どちらかと言えば近しい宗教的映画は『アマデウス』よりも、多分アベルフェラーラの『アディクション』だろう。自分が邪悪(=吸血鬼)であることを受け入れることで、その先を切り拓くような展開。もっとも、『アディクション』のラストはかなり謎めいていて、そのまま『聲の形』における植野の結末と繋げるのは不可能ではあるのだけれど、それはこの作品に対するキリスト教的な読解のほとんどに言えることで、そういったモチーフが秘められている気はするのだけれど、色々とねじれが生じてる。それこそ、ユダヤ系のウディ・アレンが宗教を扱う時のねじれみたいなもので、日本の少年漫画誌に掲載される作品で宗教を扱った時のねじれとでも言うべきか。まあ、単なるこじつけかもしれないけれど、ご都合主義にさえ見えそうないくつかの展開に関しては、漫画的表現というより、ちょっとした神秘主義的表現と考えた方が、個人的には色々すんなり腑に落ちる面が多い。

 ちなみに、先に引用した『アマデウス』での「「あなたは不公平だ。理不尽で残酷だ。あなたの思いどおりにはさせない」という台詞は、植野的でもあるが、一部読者におけるあなた(=神=大今先生)への態度とも被るかもしれない。自分が思い描いた理想の『聲の形』にならなかった読者の……いや、この話は非常に面倒なことになりそうなのでやめましょう。



 さて、第54話における「話してくれることが全部だなんてありえないのに/それがその人の全てなんだって思い込んで」という将也の台詞は、物語的には最重要といってもいいテーマだと思うが、これは同時に読者に対する辛口コメントとしても取れるし、さらに作者の自分自身への戒めのようにも取れる。映画選評会はそのことを如実に表したもので、刃ヶ谷センセは少なくとも、ファッションのセンスは乏しい気はするが(植野と佐原は賞を受賞しているし、硝子もヘアメイク担当として推薦をとれている)、そういう「センスのない人間」に評価されてしまうこと自体は、作り手としてはしょうがない面もある。だが、読者の態度として、「そうだよ、俺がどんな感想を持とうが勝手だろ」と開き直るのも見苦しい。伝えたことは100%伝わるはず、伝わらないのは相手がバカだから、というのは作者の甘え/傲慢だが、まったく伝わってこないという状況を受け手の側から考えた場合、それを作者の技量不足だけが原因と考えるのは、それはそれで受け手の甘え/傲慢だろうということだ。自分の推薦する作品/作家をより良い環境に置きたいのなら、シーン全体の向上は不可欠であり、そこで重要になるのは、特に批評的立ち位置にいる者が「どれだけ読み解くか(面白さを解説できるか)」である。プロの批評家、あるいはネット上での感想は、この点に関して、今なお全く『爆笑レッドカーペット』における今田耕司の的確で簡素なコメントや『アメトーーク』で自分の好きな分野について熱く(そして面白く)語る芸人さんたちに敵わない。

 そして、この「話してくれることが〜」は、直後からの展開における一部の読者が抱いているらしい疑問の答えでもあるかもしれない。その疑問とは、橋での再会後の展開が急すぎる(自殺を決行した硝子の立ち直りや、復活後の将也の振る舞い、その他二人の周りの人達の振る舞い)といったものである。たしかに、「描かれていること」だけを見れば、「自殺しようとしたら全て丸く収まった自殺奨励漫画」などという揶揄に頷きかけそうになるが、普通に考えれば、この文化祭から硝子の東京への旅立ちまでの間に、突然罪の意識や絶望が甦って布団から出られなくなるような日が何度かはあったと思う。重度の鬱で自殺未遂直後の人間でも、安定している時は意外なほど自然に笑顔を見せていたりすることがある。私自身もそうだったし、そんな状況に陥った知人たちもそうだった。硝子や将也、ひょっとしたら植野や川井も、文化祭以降、何度も再び死にたくなるような思いに陥ったのかもしれない。

 その程度のことは、作者が「話してくれなくても」想像できそうな気はするのだが、それができない場合は、上記のようなバックストーリーが考慮されることはない。そして、そんなバックストーリーを想像できない者の声こそが、「描かれていない間の鬱状態」を引き起こす要因でもあったりする。

 もちろん、「描かれていないだけ」ではなく、本当に何事もなく最終回である成人式まで、日常が保たれたのかもしれないが、それは幸運だっただけである。現実には、立ち直りかけているところに浴びせかけられる「その程度で立ち直れるのだから、やはり自殺なんて甘えていただけなんだろう」と言った声や態度に、何度もまた同じような精神状態に引き戻されたりするものだ(ところで、硝子の自殺に際しての一部読者のアンチ化の件で、「自殺」を殺人という究極的暴力行使・暴力欲求の一種として捉えているからでは(外向きだと他殺、内向きだと自殺)と言う意見があり、ゆえに、そのアンチ化は、硝子がそんな凶悪な人間だと思わなかったという感情から来ているのではないかと指摘されていた。ただ、あの時の硝子叩きの雰囲気から思うに、それもなくはないのだろうが、もっと単純な「自殺=逃げ/甘え」という考え方に囚われていたように思える)。しかし、やはり「描かれていないだけで」そういった「引き戻し」が何度かあった上で、あの一時的な別れ(上京)や成人式で再会に至ったのだと考えれば、あの面々が色々ありつつも笑顔で一枚の写真に納まっていたことが、より感動的なものに思えてくる。


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FALCO 3 25TH ANNIVERSARY

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