降雪なんかウンザリだ

 私の棲息地は、このところ、天候が荒れがちで、除雪に次ぐ除雪によって、ただでさえ水分の乏しい手は荒れて裂けて血まみれ、若いとは言えなくなってきた肉体も腰やら肩やらがぎいぎいと悲鳴をあげ、身体がこれだから心の方も沈みがちになり、なるべくシリアスは捨てて生きようと誓ったはずなのに、考えないようにしていた自分自身の問題点だけでなく、数少ない友人知人の中にも、色々と大変なことになっている者がいて、彼/彼女たちのことを思って益々気は落ちてゆく(そして、こういう時に限って、あまり好ましくない連中が楽しそうにしているらしいことが伝わってきたりする)。ついでに言えば、このようなことを書くと「他人の心配をしているフリをして、その実、相手に対して余計な気を遣わせるなと言いたいだけなんじゃねえか」などと思われることもありそうだな、なんてことも考えて、また落ち込む。

 さて、「便りの無いのは良い便り」と言うが、どうもネット上の付き合いにおいては、真逆なような気がする。少なくとも、私はそれなりの元気がないとネット上の言葉に目を通す気になれない(毎週日曜と水曜にブログを更新するという、自分で決めたルールを破るのが気持ち悪いので、こうしてブログだけは更新しているが……)。ゆえに、ネット上のみの付き合いの方が、しばらく音沙汰なしだったりすると、とても心配になる。そして、また「他人を心配するフリをして云々」ということにも悩み……。

 ところで、私も現在、諸事情でツイッターを眺めることをやめているのだが、このブログに毎回目を通してくれている一部の好事家の方はともかく、ツイッターのみでしか交流していない(そもそも、怖れ多くてあまりリプを飛ばせないので、「交流」と呼べるほどのものはないが)フォロワーの方の中で、良い意味でも悪い意味でも私がしばらく見当たらないことを気にしている方はいるのだろうか。まあ、いるのだとしたら、このブログに毎回目を通してくれる一部の好事家以上の好事家であると思われ、要するに「いない」のだろう。もっとも、気にされたら気にされたで、「気を遣わせてしまって申し訳ない」とか考えるので、だったら余計なことを書いていないで大人しくしとれと言われそうだが、厄介な誤解を受ける危険性を排除するために、「本当に面倒くせえ野郎だなあ」と思われるリスクは覚悟のうえで、こうしてああだこうだと、もともと沈みがちな気分が余計に沈んでいくようなことを書いているのである(気分が沈みがちなので、他に何も書けそうにないということでもある。でも、ルールを破るのも気持ち悪い)。



 話は変わるが、最近、余計なものを買ったり集めたりしたい衝動に駆られる。余計なものと言っても、個人的に気になっているから買ったり集めたりしたくなるので、厳密には「余計なもの」なんかではないのだが、それでも「余計なものだよなあ」と思ってしまうようなもの。

 具体的に言うと、今も新製品が出てはいると思うのだが、幼児向け玩具で「食品」を扱うタイプのもの。小さいソフトクリームを模した、ちゃんと食べることはできるのだが、その成分が何なのかよく分からないもの(私が幼児の頃に売られていたものは、流れていたCMの記憶を呼び覚ました限り、見た目的に本当に何なのかよくわからないものだった)を自分で作ることができる玩具、あるいは「ねるねるねるね」的な怪しげな半玩具半菓子のようなもののことである。こういったものを、なんだか「資料」として集めて飾っておきたい衝動に駆られるのである。みうらじゅんさんの「いやげ物」収集や、ゴム蛇収集みたいなものだろうか。

 昔から、観光地や「道の駅」で、それを買って何になるのか分からない、得体の知れないキーホルダー的なものを収集する癖があったし、接点も何もない捨てられているような名刺を拾って保管する癖もあった。そういう、妙ちきりんな「収集癖」が最近になって再燃しはじめているようなのだ。

 地元・北海道に拠点を戻して3年。腐れ縁たちの殆どは、首都圏近辺在住のため、他者と楽しく盛り上がるという行為に飢えるあまり、その欲求不満が個人的な「収集癖」に回帰していったのかもしれない。誰に見せるわけでも、誰と語らうわけでもないが、熱し易く冷め辛い性質の私、せっかく鎮火させていた趣味に再び火種を落としてしまい、またしばらく理解されにくい行動をとり続けることになるのだろう。そして、その行動が、また一人、また一人と私の周りから人間を去らせてゆく。


いやげ物 (ちくま文庫)

いやげ物 (ちくま文庫)