かわいいきみを、いい気味だ、なんて笑えない

 3月8日をもって終了した「-聲の形-完結記念展 大今良時原画展」。何度も申しておりますように、どうしても行くことは叶わなかったゆえ、どれほど素晴しいイベントだったのか、私は永遠に知り得ません。とりあえず、他のファンの皆様は、素敵な思い出の共有地が美月雨竜とかいう気持ち悪い感想やら考察やらをだらだらと書き散らかしていた邪魔者によって穢されなかったことをお喜びください。

 さて、そんな気持ち悪い邪魔者の私は、『聲の形』のキャラクターの中で、おそらく最も読者から「気持ち悪い邪魔者」と思われていたであろう「川井みき」という存在について、改めて考え直してみようと思う(以下、本編ネタバレ注意)。



 川井は読者に嫌われている。植野も嫌われているが、同じくらいファンもいるのに、川井に関しては「叩いても安全」と思われてさえいるかのようだ。川井が好きだという人も、そのクズぶりと天然ぶりを面白がっていることがほとんどで、植野のように(その内容が頷けるか頷けないかはともかく)色々と「擁護」されることも少ない。特に植野擁護派の人からは、「川井こそ真のクズ」「川井に比べれば、植野は相当マシ」といった意見が聞こえてくる。だが、はたして本当にそうなのだろうか? そこで、なるべく川井中心に読み直してみた。すると、どうだろう。少なくとも、作品中で描かれている限りは、橋事件や、その直前の教室での一件における川井自身の主張と、さほど大きな差はない。というかほぼ川井の言った通りであるように思えてくる。

 たとえば、川井があからさまに硝子を蔑んでいるような描写は基本的にない。映画製作会議において硝子を排除するような言動を見せたのも、明確な敵意や蔑視というよりは、いわゆる「普通の人」の中に潜む見えにくい差別意識の現われ、いやそれ以上に、もっと単純に友人である植野に味方する(植野の硝子に対する敵意に味方するというより、植野の将也への想いに味方する)形をとったという面が大きいように思う。

 そして、小学校時代は遊園地編で川井が言っていたように、確かに硝子の手助けをしている姿が何度か描かれている(ただし、植野ほど強調して描かれてはいない)。さらに、耳の聞こえない硝子にとって相手の表情は、おそらくコミュニケーションにおいて大きな要素であるが、川井は基本的に小学生の頃から笑顔で接し続けており、この点は、たとえそれが心からの笑顔でなかったとしても否定するべきものではないと思う。

 また、植野らによる硝子への陰口や悪口の場面における「わかるー」という台詞は、どうも川井っぽいが、これも明確に川井だと断定しにくい場所に吹き出しが置かれているし、川井の台詞だったとしても、後の「同調させられていただけ」という主張を裏付けるものとも考えられる(少なくとも、全くのウソというわけでもない)。小学校時代の女子グループの明確なリーダー格は、やはり植野であったと思う。

 植野に対しては、家庭の貧困(とみられる)点から、いつ自分がスクールカーストの底辺に転落するとも分からないため、特に上位をキープすることに尽力せざるを得なかったのでは、という擁護的意見があった。それ自体は、確かにそういう面もあるだろうと思う。だが、それは川井の側も同様で(川井に貧困等の属性的な弱者要素はあまり見受けられないが、いじめは順番といった話がよく聞かれることからも分かるように、学校における底辺というのは、誰がいつどんな形で陥るかは分からない)、第48話「川井みき」における回想からも、それは窺える(どちらかと言えば、スクールカースト上位をキープするというより、“純粋に”優等生であり続けようとしていたといった感じか)。

 黒板への中傷時の「やめときなよー、私しらないからね」も川井の台詞っぽいが、上記擁護が成立するのなら、この場合において、はっきり彼ら(中傷を書くことに乗り気になっている者)を止めるのは危険すぎる(ついでに言えば、この台詞が川井だとすると、結果的に黙認とほぼ同義ではあるが、川井自身はおそらく中傷の言葉を書いてはいない。この点からも、後の川井が嘘はついていないということになる)。このように、意外なほど川井の描かれ方は、川井自身が言っている通りなのである。

 では、なぜ読者にとって川井の印象が悪くなったのかというと、それは硝子に対しての態度というより、将也に対しての態度だろう。学級裁判において、将也一人に責任がのしかかる結果となった最大の要因は(将也自身がそうされても仕方のないほどの仕打ちを硝子に対してしていたこと、そして担任・竹内の存在を別とすれば)、植野や島田よりも川井の発言が大きいように思う。だが、これもまた川井からすれば、「女子はみんな〜」の発言はグループの内乱防止や自身の転落防止のための行動だろうが、将也への印象は言葉通り、偽りなしだったはずだ。この時点でも、「嘘」「偽り」は、植野の方が大きいのだ。

 「悪口は植野と川井が特にしていた」と将也は発言したが、植野は確かにそうなのだが、川井は描かれている限り、同調していた(川井的に言えば「させられていた」)だけで、この直後の涙も腹黒い自己保身ではなかったということになる(これも、第48話を読むと分かる)。そして、その直後、池に落とされた将也に対する視線が、おそらく本編中において川井がはじめて見せた「明確な敵意」の視線である。

 転落後の将也に対して川井が冷淡なのは、考えてみれば当然である。心配気な表情を見せる植野のほうを擁護したくなる人もいるだろうが、川井の言う通り、積極的に硝子へのいじめに参加していた植野がこのような立場(好きな相手の転落に結果的に一役も二役も買ったうえ、フォローすることもままならない状態)になったことこそ「インガオーホー」だとも言える。

 そんな川井の「内面」に迫った、第48話「川井みき」。当初は、重苦しい話の続く第5巻〜第6巻の中の緩衝材的なギャグ回、あるいは直後の硝子回の重さを引き立たせるため(これは、ツイッターのフォロワーさんの意見でもある)といった、悪く言えば「必要悪」のような印象だったのだが、今回読み直すと、想像以上に重く響いてしまった。川井は、この回で、硝子を抱きしめ(肩を痛めている相手をゆすったり、強引に抱いたりすんなよとは思うが)「あなたは私に似てるからわかる」と言っていて、連載当時は「何を寝ぼけたことを」と呆れたものだが、その印象と発端は異なるとは言え、真面目な優等生であろうと努力し続け、結果行き詰った川井と、「普通」であろうと必死にもがいて行き詰ってしまった硝子は、確かに似ていた。

 そうならざるを得ない状況の重みという点に関しては、個人的な尺度になるが、やはり硝子のほうが圧倒的に重いとは思う。だが、カースト転落への潜在的な恐怖から高圧的に振る舞っていたのではという視点で植野を擁護できるのなら、川井に対して同じような視線を向けられない理由もなく、表面的な同調はあれ、直接的な危害を与えず、いくつかの手助けまでしていたというのなら、尚更「川井は植野以上のクズ」「植野は川井よりはマシ」という意見には頷き難くなる(余談だが、植野に関しては、若干、いわゆる「本当はいい奴な不良」的イメージを勝手に持っている者もいるんじゃないかと思っている)。

 ところで、「植野は川井よりマシ」という意見の中に、「植野は自分の思いを素直にさらけ出している/演技してまで自分を正当化して、常に自分がかわいいと思い続ける川井のほうがクズ」というものがあったのだが、第48話を読むと、川井が「演技をしていた」というのは妥当とは言えず、本気でそう思っていた(思い込んでいた)わけであり、基本的に褒められたものではない「思い」を素直にさらけ出されても、それを「マシ」だとは、やはり考えられない。自分が誤っていることを認められず、あがき続け、他人を傷つけずにはいられない痛々しさという点では、たしかに植野は生々しく、それゆえに魅力的なキャラクターだと言えるのだが、たとえば、ここに杉下右京が介在した場合、「川井みきさんに比べれば、あなたはマシですよ」なんて絶対に言わないのである(もちろん、『聲の形』には、右京さんのような、ある種の超越者は存在しない)。



 しかし、色々と書き散らかしてきたが、ひょっとすると、川井さんが嫌われる理由は、もっと単純な理由かもしれない。以前、「反省する加害者である将也こそ、最もファンタジーな存在」だと書いたが、明確な反省はないものの、忘れたと言いつつ、しでかしたことをしっかり覚えてはいる植野よりも、自覚なき害を振り撒いてしまう川井というキャラクターこそ、『聲の形』の中で「最もリアルな存在」ではなかろうか。「最もリアルな存在」、それはつまり「最も読者に近い可能性のある存在」である。だとすれば川井は、読者がいちばん見つめ直したくない自分自身の姿を見せつけてくると存在いうことになる。なら、嫌われて当然である。


聲の形(1) (講談社コミックス)

聲の形(1) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)

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