ハチのムサシに殺されたのさ。ムサシを信じて死んだのさ。

 イカロスもハチのムサシも自分一人で勝手に死んだだけなので、ダーウィン賞の候補には挙げられるだろうが、現実の向こう見ずは、足りない頭で善意のつもりで、その他の多くの人間を巻き添えにしたりするから厄介である。

 「難しいことはわかりませんが、〜〜のように思いますよ」なんて発言をたまに見かけるが、難しいことを「難しいことはわからん」と放置したままにしておくから、そんな事が言えるのだろう。こういうのが、おそらく「ハチのムサシを信じて死ぬ人」である。まあ、ムサシを信じてそいつが死ぬだけなら構わないけれど、あまり他人を巻き込まないでほしい。文化系/芸術系みたいな世界に近い所で生きていると、よく「学者や専門家の言うことは信用するな」みたいな言葉も見聞きするのだけど、これもまた、上記のような話に近いと思う。もっとも、「信用も何も、あなた達は、学者や専門家の話を理解出来てないじゃないですか」と言いたくなる方々も多々見受けられる。そのクセ、そういった方々は自身のアテにならない直観に近しい発言をするトンデモ系の学者や専門家の事は、簡単に信用したりする。

ダーウィン・アワード 死ぬかと思ったインターナショナル

ダーウィン・アワード 死ぬかと思ったインターナショナル

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 呟き散らかしたこと



 きゃりーゲスト回の『ヨルタモリ』でタモさんが歌詞について「下手に中途半端に意味があると腹立ってくる」と言っていたけど、私もこれは完全同意で、そのテの歌は、メロディもベタっとして嫌なのが多く、徳永英明が歌わない限り聴けやしない。具体例を挙げるとファンから刺されそうだからやめるけど。
 以前も言ったけど、徳永英明はボーカリストとしての魅力が高すぎて、極端な話、曲自体はどんなにクソみたいな曲でも、徳永さんが歌うなら大丈夫、みたいなところがあって、オルゴールにしてしまえば大抵の曲は聴ける、みたいな話に近い。カバー曲はともかく、オリジナル曲で曲単体で好きな曲ないし。ウェス・モンゴメリーのギターもそんな感じ。そりゃ、あなたのギターの音色なら、曲が多少クソでも……という。
 1988年〜1993年、1998年〜2002年頃って、私が特に苦手とするタイプの歌が高確率でヒットしている。たまの「さよなら人類」が大好きなのは、「苦手な曲だらけの時代に、よくこんな曲が」という思いが強いせいもある。



 「ロビンソンの庭ごっこ」という動画を見つけた。そういえば、近所(と言えるほど近くもないが)にある廃校を見るたび、『ロビンソンの庭』みたいにしてやりたいという願望が湧き上がっていた。「ロビンソン」というワードのイメージが『水曜どうでしょう』によって塗り替えられるまでは……。
 そういえば、小学生の頃、ある先生に映画『ロビンソンの庭』のことを話したら、「かぐや姫の「マキシーのために」みたいな話か?」と言われ、その先生に対する私の中での株が急落した。



 奥田民生が初めて映画館へ観に行った映画は怪獣ものだったが、同時上映の『みなしごハッチ』の時点で、画面の大きさに脅えて泣いてしまって、怪獣どころじゃなく帰って来たという話は、「映画は映画館で観るものだ」という映画好きの理念を聞かされるたびに思い出す。勿論、この奥田民生のエピソードだけで「映画は映画館で」という理念に反対しているわけではないけれど。



 「間に合わないことが分かっているのに催すクソを我慢できなかった犬」という歌を書いている。



 『金田一少年の事件簿』は、基本的に絵が苦手で、更にアニメ版は、大半の主題歌が蕁麻疹が出そうになるほど苦手なタイプの楽曲だったため、今なお堂本剛が演じた実写版金田一しか気持ち良く思い浮かべられない。