WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS

 内田勘太郎が拾ってきたギターを直して使っていたのを見た父は、同じように粗大ゴミ置場に捨ててあったアコースティックギターを拾って来たのだが、父の技術不足か、はたまた捨てられていたギターが完全に捨てる他ない蘇生不可能なレベルのゴミだったのか、結局直されることなく、かれこれ20年以上もの間、拾われたままの姿で我が家の離れ(現在は、主に私が資料小屋として使用している)に放置されている。

 さて、この飾りとして置いておくにしても、いささかボロすぎるギター、ボディにいろいろと落書きまでされていて、元の持ち主のギターに対する扱いの雑さが感じ取れる。ひょっとしたら、個人の所有物ではなく、学校の音楽室の片隅でほとんど弾かれることもなく、児童の玩具になっていたものかもしれない。

 というのも、私が通っていた中学校の音楽室(正確には、音楽室の隣にある器具室)には、14〜5本のクラシックギターがあったのだが、どれもこれも使いものにならない状態で、父が拾ってきたギターは、正にこの母校の音楽室でむせび泣いていたギター達にそっくりな代物なのである。

 しかし、いくら使いものにならないからと言って、20年以上もの間、共に暮らしていると、妙な愛着も湧いてしまい、捨てる気にはなれない。もし捨てたら、ギターの側からすれば二度目の経験になる(ひょっとしたら、3度目、4度目くらいになるのかもしれないが)。夜な夜な、ギターのむせび泣く声に悩まされたりはしたくない。私が柩に入る直前あたりに、供養でもしてもらおうかと考えている。まあ、その時の私にそれが出来るほどの余裕があればの話だが。