Alone Again(Naturally)

「異星人の存在よりも大切なのは 人間同士のつながりだろう この宇宙に他の知的生命体が存在するしないに かかわらず―― 我々人間は皆 基本的に―― 孤独な存在だからだ」(『X‐ファイル』第3シリーズ第20話「執筆」より)

 ……ゆえにほんの少し、それがたとえ思い込みであったとしても、繋がれた/理解できたと感じられることに喜びを見出す。

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 久しぶりに『聲の形』に関する考察めいたことを書こうと思う。一応、ネタバレ注意。



「俺は自分から孤立を選ぶようになった/自分は本当は孤独ではないと思い込むためなのかもしれない」(1巻178P)

 完結して、もうかなりの時間が経ったが、何度か読み直したり他の人の感想などを読んでいて、孤独を特別な傷だと思っている限りは、きっとこの物語は完結できなかったのだろうなと思った。勿論、将也や硝子、あるいは佐原が「孤立」したことは、その境遇から考えれば「どうにかすべきもの」ではあると思うのだが、孤独ということそのものは、全人類にとって当たり前の、いわばデフォルトと言うべきものだろう。我ながらしつこいというか根に持ち過ぎな気もするが、いまだに植野に対しては「憎悪」と呼ぶべき感情が大きく心を占めているのだが、観覧車における硝子の「私は私が嫌いです」という言葉に対して植野がビンタを放ったことに対しては(その前の典型的な「いじめる側の論理」には吐き気がしたが)、それほどの嫌悪感を抱いていない。たしかに硝子のあの言葉に関しては、ほぼ唯一植野に賛同してしまうものだった。それは、この場面でこの言葉が発せられたことが「孤独を特別な傷」だと硝子がどこかで思っているように感じられるからだ。

 硝子にせよ、将也にせよ、あるいは佐原にせよ、「孤立」に至った理由が痛々しいのであり、「孤独」であること自体は、特別なものとは言えない(だからこそ、『聲の形』は、いじめや障害という設定が重要な要素ではありつつも、それとは別に、普遍的な物語であり得たのだと思う)。植野は、これまで述べた通り、いじめる側の勝手な理屈の体現者であることや、情欲で他人を傷つける点などから、いまだに激しく憎悪しているものの、硝子に対する植野の不快感の底に、こういった「孤独自体を特別なものとしているらしいことへの不快感」というものが存在していたのなら(そう匂わせる言動は、結構見られる)、私の植野に対する嫌悪感もほんの僅かながら軽減しそうである。

 ところで、将也が悔いるきっかけになったのは硝子であるが(直接的なきっかけは、硝子が自分の机を拭いていたことを知ったこと)、それは将也が絶望したきっかけとは別であろう。将也が絶望し、他人に×印をつけるようになった大きなきっかけは、島田と植野にあると思う。植野はともかく、島田は最後まで将也にとって「分かり合えない存在」で終わった(ラストの扉の向こうで何があったかは分からないが)。そんな島田の(小学生の頃から見受けられる)妙な冷め方は、かなり早い時期から「相手のことなど理解できるはずはない」という意識が芽生えていたせいではと考えたりもする。だから、あまりに「理解できてしまう」単純な将也に対し、悪く言えば「気持ち悪い」とさえ感じ始めていたのかもしれない。植野が最終巻で将也に語った「あいつらさ…小学生ん時/ちゃんと…あんたのこと好きだったんだよ?/それがなんか……なんか違うわーってなっちゃったんだろうね」という台詞も、広瀬はともかく、きっと島田には将也や植野が思っている以上に早くから、そんな思いが生じ始めていたのだと思う。考えてみれば、島田は作中で誰よりも思いの内を話していないのだ。

「話してくれることが全部だなんてありえないのに/それがその人の全てなんだって思い込んで」(7巻28P)

 やはり、この台詞が『聲の形』の肝だと思う。こんな台詞を感動的に発した後に、映画の公開選考会で島田に言わせれば「ダセー」行動をとったり、硝子の東京行きに取り乱してしまう将也は残念な奴で、それゆえに愛しい存在だとも言える。



 
 さて、もう一点。硝子の作り笑顔や自虐的傾向は保身であると否定的に述べる意見を何度か目にしたが、それに対し、私は保身で何が悪いとここで述べてきた。「孤独」がデフォルトであると同様、基本的に自分の生命を維持させるというのも自然なことであり、保身に走ることそれ自体が悪だとは到底思えないのである。「保身」と言えば、佐原だって自分があのタイミングで不登校になれば、残された硝子がどんな境遇に置かれるか想像は出来たはずで、勿論非難するつもりはないが、不登校という判断=保身と言っても間違いではないと思う。

 だから、保身の為のある意味消極的な意味でのいじめへの加担に関しては、佐原の不登校とは違い、勿論はっきりと非難対象ではあるものの、激しく責めたてる気にもなれない。その点は、川井に対しても植野に対しても同じである(植野に対して憎悪が激しいのは、いじめの理由に情欲が強く関わっているからだ)。将也や、あるいは担任である竹内を主として形成された「硝子をいじめても良い空気」と「いじめる空気に乗った多くの他の児童たち」の中で、積極的にいじめに反対するのは、自身が「いじめられる側」に陥るリスクが高すぎる。「優等生」であることが認知されていた川井であっても、軽く同調しつつ、あまりに過激にならない間際でそれとなく注意することくらいしか出来なかっただろう(川井があのキャラクターで認知されることに成功していなければ、そもそも時折見せた「だから、やめなって言ったのに」というような、「形だけの制止」すら出来なかったと思う)。




 また話は少し変わるが、「川井の保身的言動」に関連することで、ちょっと気になることがある。

 川井は植野が積極的に硝子いじめに加担していたと認識はしていた。だから、学級裁判時、将也が「悪口なら女子が一番してました!特に川井と植野がね!!」と主張した件に関しても、(川井ほど保身術に長けた者であれば)場合によっては、植野だけを切り捨てることも可能だったはずだ。そもそも、劇中でも「学級長の私がそんなことするはずないのに」と涙を流しただけで、植野が「悪口を言っていた」ことは否定してしない。だが、敢えて植野を切り捨てなかったのは、その前に擁護的発言をしていたからだろう。前言撤回して、植野が怖かったからと弁明することも可能ではあっただろうが、敵を増やす必要はないと判断するのが自然だ。

 結局、劇中では、将也のみが裁かれ、池に落とされた姿を植野は(他の3人とは違い)憐みを感じさせる表情で見ているわけだが、もし川井が植野を切り捨てていた場合、植野の将也に対する思いはどうなっただろう。将也に悪口の件を明かされた際の表情は、多く見られる植野の「明確な敵意」の表情と変らないように思える。だから私は、おそらくこの場合、植野の将也への想いは冷めてしまったのではないかと思う。そう考えると、植野が硝子に対するいじめを他者からはっきりと裁かれなかったというのは、かえって植野自身のその後の苦悩(苦しんで当然だ、もっと苦しめコノ野郎と思わなくもないが、そういった個人的な感情は置いておいて)を長く重いものにしている。つまり植野は、反省しなかったこと、そして裁かれなかったことによって、余計な苦しみを抱えることになっている。病院での硝子へのリンチや病室での籠城(そして、それらの行動の感情的理由)を将也に知られることすらなかったことで、かえってその罪を一生下ろすことができなくなったことと同様である。そして、そういった「罰」の描かれ方が可能だったのは、植野もまた「純悪」ではなかったためでもあるのだろう。


「自分でしでかしたことだが またひとりぼっちになった ごく自然に」
ギルバート・オサリバンアローン・アゲイン」より)



余談:今更ですが『聲の形』で結絃が妖精やってた時、このライトノベルの事を思い浮かべていました。妖精で妹で嘘つき、「猫っぽい目の小さい顔にショートカットがよく似合って」な清水マリコ『嘘つきは妹にしておく』(2002年)。
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