なにが大事か分からないけれど、それが大事じゃないことは分かっている(はじめまして、2016)

 はじめまして、2016(もう六日経っているけれど)。

 2016年になってから、ずっと天気が穏やかだ。正確に言えば、時折吹雪いたりもしているのだけれど、どれも眠っている間のことで、目が覚めて活動を開始すれば、快晴とまではいかなくとも、強い風も雨も雪も襲ってこない。まあ、特にこの時期に外へ出ようとする人間ではないから、あまり関係のないことなのだけれども(ただし、大雪が降れば、除雪の為に外へ出なければいけない)。

 正月にありがちな不健康な生活も送っていないので、幸いにして身体の方も調子は良い。あとは、余計な精神衛生上よろしくない情報をわざわざ覗きに行かなければ、心穏やかなままで過ごせるのだろうが、なるべく目を向けないようにしても、ちょっと油断すれば飛び込んでくるので、そろそろ黄色信号が灯る気配がある。私も変われないが、世界はもっと変われないだろうから、どうしようもない。 

 というわけで、新年一発目のちょっとしたイライラ。

 「正しい日本語を使おう、正しい漢字を使おう」的な話を見聞きして云々という、そういった風潮への批判というか疑問めいたツイートが流れてきたけれど、勿論、ちょっとした間違いをやたらバカにするだけの風潮もあるにはあるが、基本的に「正しい日本語/正しい漢字を使う」というのは、「わかりやすさ」、そして「意味をちゃんと伝える」という配慮なわけで、「正しい日本語/漢字」の知識の有無以前に、そういった配慮が欠けているとしか思えなくなるような言葉づかいの人に対して少しもイライラしないのなら、それはもう会話であれ文章であれ、受け手が適当すぎるのではないかと思う。

 映画学校時代、抽象的な芸術家ぶったフワフワな言葉でしか意見を言えず、しかし、その内容を誰かが通訳すれば(毎回、同じ同期生が通訳係になっていた。よく、あれだけ辛抱強く通訳し続けたものだと思う)、さほど大した内容でもなく、さすがに講師の一人から「お前ら〇〇(通訳になっていた同期生)に毎回通訳してもらわないといけないようでは、どうしようもないぞ」といった旨の注意を受けていた同期生数名たちは、はたして「正しい日本語」とまでは行かなくても、せめて意味の通じる日本語を使えるようになっただろうか。

 友達が少ない(その少ない友達さえ、相手がこちらを友達と思ってくれているかは怪しい)うえ、とある事情から、特に高校以降「年賀状」というものを書く習慣がなく、LINEとやらに参加する気も毛頭ないため、映画学校の同期生たちの動向など、数名の様子をツイッターやブログの更新等で知るだけなので、私をイライラさせ続けたあの方たちがどうなっているかは、さっぱり分からないのだった。