彼の見たポールは潔癖すぎる世界の中

 WHOが喫煙シーンのある映画やドラマを成人指定にするよう勧告したというニュースが流れてきた。ツイッターなどで流れてきた見出しや短いニュースだと、「成人指定にするよう勧告」というだけしか伝わらないものが多いが、よく情報を漁ると、「成人向けにすることや、映画の始まりに煙草の健康被害を訴える警告をいれるよう勧告」というものもあって、後者であれば、まあそこまでの抵抗はない(あくまで許容範囲というだけだが)。もっとも、WHOに決定権があるわけでもなく(だからこその「勧告」なわけだが)、未成年の喫煙の問題が大きくなっていることも確かではあるのだろう。実際、WHOは権力というわけではなく、「健康に関する事柄を担当する国際機関であり、それ以上でも以下でもない データの取りまとめや勧告を出すなどが彼らの仕事で、勧告を実運用に落とし込むとこまではしない」(ほぼ発言者のツイートそのまま)という話も読んだ。煙草に害があるのは(どのくらいの害なのかについては、私は専門家でもなければ、詳しく調べたわけでもないので確かなことは言えない)、さすがに否定しようがないだろうし、WHOの元に信頼できるものかどうかは別として「映画の喫煙シーンが、未成年の喫煙に影響を与えている」というデータが入ったことも事実なのだろう。ならば、WHOとしては、その旨を伝える義務があるだろうし、それに対する策も同時に勧告するのは当然ではあるだろう。その勧告内容が方法として適切かどうかは、また別の話だ(とは言っても、先の発言者が、それとは別に呟いていた「吹きあがってる人は、「タバコをガキどもに吸わせて一儲け」に加担してるのと同然」という意見には頷き難いのだが……)。

 さて、そんなツイッター上の「成人指定」という文字が強く目につく短いニュースに対し、後者のような規制方法(映画の始まりに煙草の健康被害を訴える警告をいれる等)も提示されているということや、WHOという機関の意味などにも触れず、「これはこれでいいんじゃないか」と述べている人がいた。残念なのは、この人が、『聲の形』の有名な考察ブログで知った人だったことで、本当にどうしてこの作品を評価しているということがきっかけで知った人たちに対して、こう何度もうんざりさせられなければならないのだろう。作品自体は今でも好きだし、作者だけでなく制作側に対しては特に大きな不満もないのに、作品をめぐる議論での、いわゆるアンチ寄りな発言を見ることによってのストレスも含め、作品の外側の方で、しょっちゅう嫌な気分になっている。ひょっとしたら、私はこの作品を知っちゃいけなかったのではないかと思うくらいだ。この作品を知ることによって、何か良くない呪いでも発動したのではないか? そんなことさえ考えてしまう。

 私自身は、煙草は嫌いである。自分が吸うことはないし、近くで吸われるのも嫌である。だが、分煙で済むところを徹底禁煙にしようとするような考えには反対だし、それなら分煙とマナーさえ徹底すればかなりの被害をなくせそうな煙草より、酔っぱらいどもや車の危険性をどうにかしてほしい。しかし、より嫌いな酒と車に対しても、たしかに廃れてくれたら嬉しいとは思っているが、廃れたところで普及していた事実は消えないし、実際に現実では普及しているわけで、それなのに創作物からその姿を消そうとする考えには反対なのだ。

 WHOが飲酒シーンへの規制を勧告するかどうかは分からないが、もしタバコと同じように飲酒シーンに対しても規制が勧告されることになれば、当然『聲の形』における将也の母と硝子の母の和解シーン、そしてその後も二人で飲んで盛り上がっているらしいシーンなどはカットされるか、あるいはツイッター上に流れてきた見出し通りの規制になれば、作品そのものを未成年に紹介することができなくなる。そもそも、未成年の喫煙どころか喫煙者のイメージを悪くさせるような場面ではあるにしても、『聲の形』には喫煙のシーンだってあるのだ(将也のみぞおちに一撃を喰らわせる直前のげんき君が、吸った煙草の火を足で踏んで消している)。それでも「これはこれでいいんじゃないか」と言えるのだろうか。

 もし、完全な成人指定ではなく、注意書きを添えるといった形での規制といった意味で「これはこれでいいんじゃないか」と言いたいのであれば、やはり面倒でもそういった点に触れておくべきだと思う。表現規制の問題に敏感になっている人が少なくないことを知らないはずはないだろう。事実、煙草と表現規制の問題に関しては、すでにビートルズの『アビイ・ロード』のジャケットから、ポールの持っていた煙草が消される、なんて話もあった。そういったことに対して鈍感だったのだとしたら、それはそれで、また残念だ(これまでも、この人の話には、何度か考察の不備というか、説明の不備みたいなものを感じていた)。

 もちろん、人間は完璧ではなく、問題Aに対しては鋭い考察をすることができても、問題Bに対しては不勉強(あるいは、素晴らしいものを作る力はあるが、何か別の事柄に関しては、残念な結果になる)なんてことは、当然あるし、それぞれの中で、看過できないポイントというのも異なるだろう。色々と嫌な面もあるが、嫌いになれない面、あるいは好きな面の方が大きいとか、誰かにがっかりする/しないのにも色々と差が生じる(「才能」というものには、いろんな形があるという話にも繋がっていきそうで、この辺りのことは、今度またじっくり考えてみたい)。今回、私がうんざりしてしまったのだって、私個人の看過できないポイントに触れた(というより、かねてから何度か負の琴線に触れる点がいくつかあって、それが今回の件で上限を越えたという漢字だ)というだけのことではある。ただ、昨年あたりから看過できなくなってしまった人たちの大きな要因に、「人それぞれ看過できないポイントに差がある、ということに対する鈍感さ」というものがあって(言葉で説明すると、ずいぶんややこしくなる)、そんな問題に関してもまたいずれ書き散らかしてみようかなと思っている。