「限りないむなしさの救いはないだろうか」「ない」

 かつて私が書き散らかした文章を評価してくれた人が、つい最近、ある場所にて一篇のお話を公開した。興味を持った私は、さっそく読んでみたのだが、その文章がちょっと、いや、かなり残念なもので、あまりに残念だったので、その残念さを詳細に書き記そうと思ったのだが、どうやら私には、そんな自分自身の心情を見事に文章化する力などないらしいという残念な事実に直面し、「そもそもそんな者が他人の文章を残念だとか思って良いものか」「しかし、残念に思ったのもまた事実だ」「実際、残念だった」「だから、お前さんが残念に思ったかどうかじゃなく、それを判断して公表する資格があるのかという話をしているんだよ」「資格もなにも、その思いを見事に文章化する技術がないのだから黙ってろという話じゃないのか」「でも、このやるせないもやもやを誰かに伝えたい」「ああ、悲しくてやりきれない」などと脳内でまとまりのない会議が繰り広げられ、結局、脳内会議議長が「いっそ、小学校の勉強からやり直してみたらどうか。小学1年生から高校までの教科書を引っ張りだすべし」と結論を出し、私の肉体はその指示に従って、実際に保存してあった教科書を自室へと運んだ。本当に1から勉強し直せば、私の曇りがかった脳細胞も、再び活き活きとした仕事ぶりを見せてくれるようになるかもしれないし、そんな私の姿を見た人々が、「私も1から勉強し直してみよう」と思い、私の視界から具合の悪くなるような残念な文章が減ったりするかもしれない。そうなれば、願ったり叶ったりだ。

 そんな私の勝手な思いを、こうしてブログに書き散らかし続けているが、はたしてこのブログは、いったいどれだけの人の目に触れているのか、そもそも誰かの目に触れているのかどうか、と考えると、さらに悲しくてやりきれなくなるので、ごくまれに、数少ない「友人と呼ばせてもらえることを許してもらえるのなら大変うれしいと思う相手(「友人」と呼びたいが、相手がどう思っているのかは分からない)」にぽろっと漏らしたりしている。大抵は、「好きにせえ」という一言で片づけられるのだが、そんな一言で片づけられても憎くないどころか、かえって心地よいと思わせてくれるような相手が、私にとっての「友人と呼ばせてもらえることを許してもらえ(以下略)」である。