「DA.YO.NE」の北海道版は「DA.BE.SA」、歌っていたのは社長と会長。あの頃はそれでもいい感じ。

 ツイッターを眺めていると、「〜だよね」「〜ですよね」「〜だろ」「〜だよな」と語尾が頻繁に同意を求めるような形になっている人がいる。

 初めて話した相手や、あまり話したことがなかった相手と会話していて、実は共通の趣味を持っていることが分かったりすると、だんだん嬉しくなってきて、あの話もしてみたい、この話もしてみたいという気持ちになったりするのだが、語尾が上記のような形になるのは、大抵はそういう時である。ゆえに、基本的には「独り言」であるツイッターにおいて、なぜ頻繁に、下手をすれば「必ずと言っていいほど」というくらいに同意を求めるような言い方になるのか、ちょっと気になってくる。いや、「気になる」というより、正直に言えば、なんだか少し不快な言い回しだとさえ思ってしまう。

 鍵をつけて仲間内にのみ呟きの内容を公開しているのならばまだしも、不特定多数の人間の目に触れる場において、このような言い方ばかりしているというのは、自分の意見が大多数に同意してもらえることが前提となっているのか、あるいはその人の人生が「同意してくるような者しか周りにいない」ようなものだったのか、いずれにしても、私にとっては、出来ることならあまり近寄りたくないタイプの人だ。実際、発言内容そのものも同意できないことが多々ある。

 発言内容以前に、その「姿勢」として気持ちが良くないという話ではあり、そんなことより発言そのものを見ろという意見は、それはそれで確かにとも思うのだが、こういった「同意強要風」の口調が目立つ人が同意を得ようとしているらしい意見の中には、「姿勢」に関するものもよく挙がっていて、それゆえに余計に嫌な気分になってしまうのだろう。

 EAST END×YURIの「DA.YO.NE」が流行ったのは、もう20年近く前のことで(調べてみて初めて知ったのだが、どうやら最初に火がついたのは北海道だったらしい)、私は小学校低学年だった。当時の若者の身内ノリがそのまま歌になっていること自体は面白く感じたが、同時に「もし自分が、ああいったノリの人間に“だよね?”と言われて“だよね”と返せるだろうか」なんてことを考えたりもした。別に、当時のあの雰囲気がそこまで不快だったわけではないし、「だよね?」と訊かれた内容そのものが仮に「だよね」と返せる問いだったとしても、自分があのようなノリになることは不可能だとも思っていたので、やっぱり気持ちよく「だよね」とは返せない。そんな、傍から見ればどうでもいいであろう結論を自分の中で勝手に出して、あの歌自体は「まあ、面白いからいいか」程度の気持ちで聴いていた。

 そして、2016年。ツイッターなどで目につく「〜だよね」「〜ですよね」「〜だろ」「〜だよな」から醸し出される、EAST END×YURIの「DA.YO.NE」には全く感じなかった“やな感じ”に対し、いちいち心の中で「いいや、全然!」と叫びつつ、しかし声を出して否定したら、きっと「お前には訊いてないから」とか言うんだろうな、ああいう奴はと思い、また更に“いい感じ”からは遠ざかっていく。だから、なんとかそんなものからは“それでは さようなら”したいなと思っている。

DA.YO.NE

DA.YO.NE

DA.BE.SA

DA.BE.SA

これが私の生きる道

これが私の生きる道