知識の実、いや知識“のみ”

 2016年も下半期に突入したので、日記更新のペースを週2回に戻そうと思う。やはり、“他人の目に触れることを前提として文章を書く”という行為は、多く自分に課しておいたほうがいい気がするのだ。

 しかし、そう決意したところで、すらすらと文章が生まれてくるわけはない。そんな簡単にいくのであれば、更新を休止したり、週1回に減らしたりすることもない。「こういったことについて書いてみよう」という候補みたいなものは、それなりに浮かんではいるのだが、いかんせん考えがまとまらない。下書きだけは、山のように増えていき、そのうちテーマの候補すら浮かばなくなってくる。何が足りないのか。想像力? いや、知識だろう。というわけで、今日は「想像力ではなく、たぶん知識」というお話。


 以前、小谷野敦さんがブログで「想像力」の濫用について書いていた(学生が世界の地理や歴史を知らない、と話したら、「想像力が足りないのだ」と言う人がいて、「いや、知識でしょう」と言っても、その相手は「想像力だ」と言ってきかなかった、という話)。たしかに、ここで言われる「想像力」は、明らかに「知識」だろう。

 いや、この話だけでなく、世の中で言われている「想像力」というものの大半(とまではいかなくても、半分くらい)は、「知識」の話なのではないかと思う。

 たとえば、居酒屋などで出てくる大皿に載ったから揚げにレモンを絞るか否かという話は、けっこう多くされていて、私自身も知人とその是非について話したことがあるのだが(もっとも、私はそもそも居酒屋で食事することも、大勢で食事することも嫌いなので、その状況自体が割とどうでもよかったりする)、これもよく「断りもなくレモンを絞りかけてしまう者は想像力がないのだ」とされている。だが、「レモンをかけたから揚げを好まない人もいる」という知識があれば、絞りかける前に確認をとるだろうし、それ以前に「自分が好きなものを嫌いな人もいる(またはその逆もある)」なんてことは、居酒屋でから揚げにレモンを絞るなんてことより早く経験していそうなものである。知識や経験がしっかり身についていて、そこではじめて「想像力」を働かせることができるようになるはずなのだ(「レモンのかかったから揚げが嫌いな人もいる」という知識がなくても、「自分が好きな者を嫌いな人もいる」という知識/経験さえあれば、「ひょっとしたらレモンつきから揚げも」という考えに至り易い)。もっとも、嫌いな人もいるという知識もあって想像もできるのに、「レモンをかけたほうが美味なのだ」と言って聞かず、強引に絞りかけるようなタイプの人もいて、この場合は「知識」よりも「想像力」のほうが当てはまりそうな気はするが、しかし、もっと何か別の「頭の悪さ」だという気もする。

 さて、こうやって考えていくと、芸術論なんかでもよく聞く「人間の二面性」だとか「人間の内面の複雑さ」といったものも、ひょっとしたら、その多くが「人間は全ての面において賢くあることは困難である」という、つまるところは「知識」の問題なのではないかという気がしてくる。ならば、もっとも必要とされる知識は「人の知識や経験はどうしても偏りがちになる」というものかもしれない。そこさえ押さえておけば、勉強する際には、なるべく広く吸収しようという気になり易いだろうし、「ひょっとしたら自分は間違っているのかもしれない」という考えにも至り易いだろう。

 というわけで、当然のように「今日書いたことは、なにもかも間違っているかもしれない」という思いを心に刻みつつ、久しぶりの日曜日のブログ更新を終えることにする。

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余談

 及川眠子先生がツイッターで「元SPEEDのとか元何々のとか付けられること自体で、自分がさほど有名ではないんだということを理解しなければいけない。元スーパーモンキーズ安室奈美恵、元Ribonの永作博美なんて言わないでしょ。個人のスター性、そして努力があれば、過去の冠なんて簡単にはずれるのさ。」と呟いていて、ribbonは及川先生に正しい綴りも覚えてもらえていないほどの“過去の冠”なのだなあ、と少々ずれた寂しさを感じる。

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