“怪しい獣”がやってきた

 『シン・ゴジラ』を観てきた。

 これを観れたのだから、今年はもう無理をしてまで映画館へ足を運ばなくてもいいかな、と思ってしまうほどの傑作だった。

 読むべき感想や考察、批評は、既に柴那典さんのブログをはじめ、色々と公開されているし、もっと時間が経てば(具体的に言えば、「ネタバレ注意」という但し書きを添えなくても問題ないくらいになれば)、さらに多くの『シン・ゴジラ』に関する文章が発表されることだろう。

 ゆえに、私が自信を持って書けるような感想/考察など、今もこれから先も、おそらくない。それでも、なにか言いたくなってしまうのが『シン・ゴジラ』だった。

 というわけで、作品に対する深い考察とはとても呼べないが、ちょっと書いておきたいことをいくつか(ゴジラとは直接関係のない話も多い。まあ、意図的にそうしているわけですが)。





 以下、ネタバレ注意。


シン・ゴジラ』予告





 『シン・ゴジラ』に関する、未見の方の耳には絶対に入れてはいけない情報のひとつが、「今回のゴジラは進化する(変態する)」ということだろう(この設定や、ラストでのゴジラへの対処法は、アイバン・ライトマン監督の『エボリューション』を想起させる。本編開始前の新作映画予告で『ゴーストバスターズ』の映像が流れていたことも含めてだけれど)。結構な数の観客が、最初に上陸した時のゴジラの姿を見て「対戦怪獣か?」と思ったかもしれない。実際、私の胸には、一瞬そんな不安がよぎった(“不安”と書いたのは、正直に言って、いまさらゴジラが他の怪獣と対戦する映画なんか期待していなかったからだ)。

 しかし、仮に、あの姿のゴジラが対戦怪獣であったとしても、ゴジラ自体がガメラのような地球の守護者のような描かれ方(ガメラはあれでいいのだけれど)をしない限りは、ひょっとしたら私は作品に対して、それなりに満足したかもしれない。というのは、私が“怪獣”に対して“可愛らしさ”や“親しみやすさ”なんてものを、ほとんど求めていないからだ。

 ちょっとゴジラの話から離れるが、私は『ドラゴンクエスト』も『FINAL FANTASY』も全作プレイしているし、関連作品(映像作品やマンガ、小説など)も多く観てきたし、読んできたし、聴いてきた。そのうえで、より好きなのはどちらかと尋ねられたら、「どちらかといえば『FF』派だ」と答える。

 もちろん、シリーズの中には、どちらにもあまり好きとはいえないものもあるが、シリーズ全体を通してどちらがより好きかという問われて、「FF派だ」と答えるのは、モンスターの造形が大きな理由だ。

 鳥山先生の描くキャラクターは、ポップで可愛らしく、それゆえに人気が出たのも分かるのだけれど、私の求めるモンスター像ではないのである(モンスターだけでなく、人間に関しても、どうにも私は鳥山先生の描く「筋肉」が苦手で、たとえば公式イラストでのビアンカのふくらはぎのたくましさとかが好きになれなかったりする。『ドラクエ4コママンガ劇場』が好きだったのは、他の漫画家の描くキャラクターには、あまり筋肉が強調されていないものも多かったからかもしれない。というか、鳥山先生だけでなく、私は「マンガで描かれる筋肉」というものが、基本的に嫌いなのだ。『キン肉マン』がいまだに嫌いなのは、そのせいもある)。その点、FFに登場するモンスターは、得体の知れないものやグロテスクなものが多く、私の好みに合致したのだ(『V』の正体不明・不定形だとか、『Ⅶ』のイン&ヤンだとかね)。

 『シン・ゴジラ』でのゴジラのデザインがグロテスクであることは、本編を観ていない人でも理解できているだろう。しかし、上陸時の形態のゴジラのグロテスクさは、もっと凄まじかった。シネコンのロビーの人混みが苦手すぎて(地元のシネコンのロビーは狭く、たいして人がいなくても、私にはきつい)パンフレットを買う余裕がなかったため、ゴジラモーションキャプチャーを担当した野村萬斎さんが、この形態のゴジラも担当していたのかどうかは分からないが、姿だけでなく、動きもおぞましかった。しかし、これぞ私の求める“怪獣”の姿だった。

 ちなみに、私は元々、ゴジラの造形はあまり好きではなかった。大型肉食恐竜の背を伸ばしたようなその姿は、私にはシンプルすぎるように思えた。「怪しい獣」と書いて「怪獣」だ。実際に存在して、しかも、ゲジやクモほど不気味とは言い難い姿の生き物が巨大化しただけでは、「怪しい獣」には思えなかったのだ(そういえば、『大日本人』の主人公は、「自分が戦う相手は怪しいわけではない」という理由で「怪獣」をただ「獣(じゅう)」と呼んでいた。ちなみに『シン・ゴジラ』の世界には、「怪獣」という概念そのものがないという設定らしく、実際「怪獣」という言葉は一度も登場しなかったようだ)。しかし、今回のゴジラは、チラシや予告などで拝むことができる姿の時点で、第一作目のゴジラ以上の恐ろしさであることが分かり、もうそれだけで100点満点中の50点は確定していたようなものだった。

 考えてみれば、私が『新世紀エヴァンゲリオン』で最初に魅力を感じたのは、使徒のデザインだった。朱川審こと岸田森さまが生み出した、あのプリズ魔を元にしたラミエルなんて大好物なのだ(不定形怪獣、オブジェ系怪獣大好き)。いや、もちろん作品そのものも好きだし、綾波もアスカも大好きなのだけれど、本当に、最初に興味を持ったのは、たまたまなにかの番組(たしか『はなきんデータランド』でのアニメVHSランキングかなにかだったと思う。当時、私の地元では、テレビ東京は放送されていなかったので、本放送を観ることはできなかった。『ふしぎの海のナディア』はNHKなので観ていたけれどね)で、エヴァ使徒の対戦シーンを観たのがきっかけだった。「“共感”よりも“驚愕”」の精神は、その頃から今も変わらない。

 余談になるけれど、作品はともかく、それまでのゴジラを怪獣としてはあまり好きではなかったように、私は『エヴァ』でも、「エヴァンゲリオン」というロボット兵器(正しくは人造人間だが)は、あまり好きではない。そもそも、『エヴァ』に限らず、「人型ロボット」というものがあまり好きではない。まあ、C‐3POやアラレちゃんやマルチといった、「ロボット」というより「アンドロイド」に近いタイプのものになると別なのだが、ゴツゴツした感じの「人型ロボット兵器」が苦手なのだ。『ガンダム』も作品自体は好きだが、「ガンダム」そのものは、たぶん「嫌い」と言ってもいい。スーパー戦隊シリーズでも、合体ロボのシーンだけ冷めてしまうような人間なのだ。わりとシャープな造形のエヴァンゲリオンは、まだマシなほうである。

 なので、『シン・ゴジラ』に、メカゴジラのようなロボット怪獣が登場しなくて、本当によかったと思う。メカゴジラは、人型ではなく、その名の通り「ゴジラ型」だが、デザインをゴジラに寄せる必要性がまったく理解できないのだ。



 さて、もうひとつ、これまでのゴジラシリーズで、あまり好きではなかったものが自衛隊のシーンである。私は別に、ことさら自衛隊そのものに対して否定的な考えを持っているわけではないのだけれど、、実物の戦車や戦闘機ならまだしも、撮影用のミニチュアや実在しない兵器群(メーサー兵器やスーパーX)が、あのマーチ風の音楽にあわせて現れると、なんだか運動会を見ている気分になってしまう。自衛隊うんぬん以前に、たぶん「マーチ」というものを聴くと、私の中の緊張感や昂揚感が消されてしまうのだろう。『ゴジラ』のメインテーマ曲は大好きなのに。

 ところが、『シン・ゴジラ』のクライマックスで、いつものあの音楽が流れたとき、私は興奮していた。そして、興奮している自分に驚いた。なんでだ? この曲、嫌いだったはずだろ? 観る前から「あの曲が流れたら、きっとまた萎えてしまうのだろうなあ」なんて心配していたはずだろ?

 その謎を解くヒントは、おそらく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』にある。『ヱヴァ:破』では、真希波が口ずさむ『三百六十五歩のマーチ』やクライマックスでの『翼をください』(アニメ版『化物語』のキャラクターコメンタリーの中で、阿良々木くんが「お前(羽川翼)のテーマ曲」と言っていましたが、もちろんあの曲は羽川さんのテーマ曲ではありません。羽川さんも否定していました)など、数曲の既成曲が使用されていたけれど、その中で、私がいちばん感動したのは、『太陽を盗んだ男』の劇伴『YAMASHITA』だった。別の作品で使われていた音楽が、また別の作品で使われ、新たな意味を与えられる。映画に限らず、サブカルチャー全般を趣味としている人間にとって、こういった演出は、けっこうたまらないものがある。

 『シン・ゴジラ』では、中盤あたりから、『踊る大捜査線』でもパロディされた『エヴァ』のあの曲が繰り返し使用され、この映画が『ゴジラ』シリーズの新作であるという以上に、庵野秀明監督の新作であるという印象を強く抱かされる。そんな気分が最高潮に達したところで流れる、あの自衛隊の曲は、『ゴジラ』シリーズで繰り返し使用されてきたものではあるが、しかし庵野秀明監督によって(旧作へのリスペクトと共に)新たな意味を加えられたものだ。つまり、『ヱヴァ:破』で『YAMASHITA』が聞こえてきた時に感じた感動と同じものだったのだろう。だから、本来はあの曲が好きではなかった私でさえ興奮してしまったのだ。



 最後にもう一点。これは、『シン・ゴジラ』において、ひょっとしたらかなり上位の“笑いどころ”なのかもしれないけれど、犬童一心緒方明原一男という実写映画監督トリオが揃って登場するシーンがある。ゴジラ出現に対して緊急に召集された学者たちという役どころなのだが、まったく参考にならず、あっという間に出番は終わり「御用学者じゃ話にならん」とか言われてしまう(もうひとり、『鉄男』の塚本晋也監督が生物学の准教授の役で登場しているが、こちらはゴジラ対策チームの一員として、かなり活躍している。上記3人と比べて、各段に出番が多いのは、単純に塚本さんが俳優としても多く活躍しているからだろう。ちなみに『SR サイタマノラッパー』の入江悠監督もノンクレジット出演している)。

 この「御用学者」という言葉は、東日本大震災の際、左翼的な精神の暴走と勉強不足の目立つ人たちが、実際には適切な提言をしていた学者たちに対して浴びせた言葉でもあり、役に立たなかった映画監督トリオ演じる学者たちがこのように呼ばれることに関しては、(庵野さんがどのように考えているかは分からないけれど)鑑賞の際に少々注意が必要かもしれない。そもそも、学者として「映像だけでは判断できない」という答えは間違ってはいないわけだし(政府側は、あくまであの時点で予想されうることや考慮しておくべき対応などを聞きたかったのだろうけれど)。

 しかし、私はこのシーンで、そういったこととは別に、ちょっと意地悪な感想を持った。「役立たず」とされたのは、ひょっとして「御用学者」ではなく「映画監督」のほうなのではないか、ということだ。

 この「役立たず学者トリオ」を演じた監督たちは、それぞれ骨太な作品を発表しており(まあ、数本は、どうかなと思うものもあるのだけれど、たとえば犬童監督の『メゾン・ド・ヒミコ』、緒方監督の『独立少年合唱団』、そして原監督の『ゆきゆきて、神軍』は傑作だと思うし、私個人のお気に入り映画でもある。ちなみに『独立少年合唱団』には、『シン・ゴジラ』にも写真出演していた故・岡本喜八監督が役者として出演している)、決して「無能な映画監督」などではないのだけれど、日本映画の小作品的なものの多くが、単に閉じているだけのようなものだという印象は拭えず、これはテレビ局主導の日本映画によくみられる問題点とはまた違った意味での、日本映画の病みたいなものだと思う(ツイッターで話題の「日本映画ダメ絶対bot」などで呟かれる内容を参考にしてみてください)。

 「アニメと実写はどちらが優れた表現か」などという話は、バカバカしいにも程があるが、しかし、『シン・ゴジラ』のような実写映画の傑作を、アニメ畑の庵野秀明と特撮畑の樋口真嗣のコンビが撮ったという事実を実写映画作家たちは真剣に考えたほうがいいのかもしれない。たぶん、「役立たず学者トリオ」を演じた3人は、多少なりともそういった危機意識は抱いているのだと思う。つまり、映画監督トリオが役に立たない学者を演じるこのシーンは、実写映画界に対する皮肉なんじゃないかと……。まあ、これは、あくまで私の勝手な憶測ですけどね。



 ああ、なんだか本当に、作品の深い部分とはあまり関係のなさそうな、私個人の好みの話を長々としてしまった。でも、『シン・ゴジラ』のポリティカルフィクションとしての素晴らしさだとか、さらにマニアックなオマージュなどに関する考察/感想は、先述の通り、もっと詳しい他の誰かに任せたい。というか、自分が書くより、他の人のものを読みたいというのが正直な意見なのだ。

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