「お母さん、庭に、星の花がいっぱいさいているよ」

 私が小学校3年の時の国語の教科書に、今西祐行の『星の花』が載っていた。

 星が大好きな少年・二郎君が、庭に布団を敷いて流れ星を見ようとするお話だ。私は教科書に載っていたものしか読んだことがなく、原文がどうなっているのかは、今のところ知らないのだけれど、結局、二郎君は星を見る前に眠ってしまい、そもそも流れ星自体その夜には観測されなかったが、夢を見たのか、二郎君は翌朝、両親に「たくさん流れたね」と興奮して語り、両親も嬉しそうな二郎君に本当のことを言えなかった。それから一年ほど経ち、二郎君も、あの日見た星が夢であったことは理解したようなのだが、庭に二郎君の知らない花(はこべの花)がびっしり咲いているのをみつけ、母親に「お母さん、庭に星の花がいっぱいさいているよ」と言って話は終わる。

 教科書では「『星の花』の二郎君が、小さな花が庭一面にさいているのを見つけた朝のことを作文に書くとしたら、どのように書くでしょう。二郎君になったつもりで、次の文章につづけて作文を書いてみましょう」(当時の教科書からそのまま引用)とあり、実際に授業でこの課題は行われた。ちなみに、「次の文章」とは、以下のようなものだ。


 今朝、起きて庭を見ると、緑の草がびっしりと生えて、そこに、まるで星をちりばめたような白い花が一面にさいてました。そこは、去年の秋、ぼくが流れ星を見るために、ふとんをしいてもらって、ねた所です。
 ぼくは、庭にさいた小さな花を見ているうちに、ふと、あの夜のゆめのことを、ありありと思い出しました。それで、台所にいるお母さんに大きな声で言いました。
「お母さん、庭に、星の花がいっぱいさいているよ」
(こちらも、当時の教科書からそのまま引用)


 続けて、教科書には「お母さんは、庭にさいている花を見て、どう言ったでしょう。それから、二人は、どんな話をしたでしょう。また、二郎君は、庭にさいた花をどうしようと思ったでしょう」と書いてあり、純真で素直な小学3年の同級生たち(言い換えれば、疑うことを知らないおバカな子供たち)は、この教科書の言葉通りの順番で、上記の文章の「続き」を書いた。つまり、書き出しは母親の台詞だ。純真で素直とは言い難い、疑うことだけは知っていたが、皆と同じくらいおバカではあった小学3年の私も、それに倣った(余談だが、以前にも書いたように、私の小学校は児童数が少なく、小学3年の時は、4年生と同じ教室の複式学級だったので、この課題はひとつ上の4年生も一緒に行った)。
 
 純真で素直で疑うことを知らないおバカな子供とは言え、どういった答えが教科書的には正解とされるのか、どういった答えが担任から好評を博するのかといったことが分からないほどのおバカさんではない。「流れ星が夢であったことを、すぐには指摘しない両親が、息子の“星の花”という言葉を否定するとは思えない」と、それなりに論理的に考えた者だっていただろう。ゆえに、私が覚えている限り、二郎君の「星の花」という発言を、すぐに否定した答えはなかったはずだ。私を除いては。

 純真で素直とはまったく言えない、疑うことだけは知っているおバカな私は、母親の第一声を「それは、はこべよ」にした。

 いくら、疑うことだけを知ったおバカとはいえ、当時の私だって、それが教科書的な正解ではないだろうと理解していた。このお話に登場する両親なら、二郎君が「星の花」だと感じたということそのものを否定することはないだろう、ということも分かっていた。いくら、二郎君が布団を庭に敷いて外で寝ると言い出した時の母親の態度が、多少呆れた感じに描写されていたからといって、翌朝は前述の通り、息子の夢を壊さないよう配慮していたわけだし、「去年のことは夢だと分かったはずなのに、まだ“星の花”だとかワケのわからんことをほざいているのか、このバカ息子は」と、急に態度を冷たくするような展開は、ギャグとしてはあるかもしれないが、教科書に載る児童文学では求めてられていないだろうとも思っていた。

 しかし、「担任からどう評価されるか」という点に関しては、当時の担任なら、少なくとも怒られたりバカにされるようなことはないだろうと思っていた。ちょっと変わった人だったのだ。

 もちろん、今まで述べてきたように、自分の答えが教科書的な正解とは違うであろうと理解はしていた。しかし、「それは、はこべよ」という返事が、「ひねくれた答えをしてやろう」という、受け狙い精神で書いたものというわけでもなかった。別に、二郎君が「星の花」と呼んだ花が、実際には「はこべ」という花であることをすぐに指摘したところで、二郎君の心を踏みにじるようなことではないと思ったのだ。

 原作の設定はわからないが、教科書に載っていた『星の花』の二郎君は、当時の私たちと同じ「小学校3年生」になっていた。まだまだ、純真で素直でおバカな面が目立つとはいえ、このように何度も「おバカ、おバカ」と書くのが適切だと私が本気で思っているほど、この年齢の子供がバカなはずはない。この文章で、「おバカ」と繰り返していることこそ、ただのひねくれた受け狙い精神だ(実際に受けているかどうかは別として)。

 そう、子供はバカではない。小学3年にもなれば特に、だ。もちろん、一概には言えないけれど、『星の花』の二郎君が、自分が「星の花」と呼んだ花のことを、すぐに母親から「あれは、はこべよ」と指摘されたところで、傷ついたりしなくても不思議ではないと思った。たとえば、何の変哲もない一本の鉛筆が、ある人にとっては特別なものであるかもしれない。そのことを尊ぶか、バカにするかは別として、「そういうことがある」ということは、小学3年なら理解できないことではない。だから、「星の花がはこべである」と指摘されたところで、二郎君にとっての「星の花」が踏みにじられたわけではないし、二郎君だってそう考えるんじゃないだろうか。そもそも、二郎君が本気で、なにかファンタジー的な意味での「星の花」と言っていると考えるほうが不自然じゃないだろうか。もし、本気で「星の花」というものを信じてしまっているのなら、第一声で伝えずとも、それとなく真実を教えてあげないと学校でバカにされたりするんじゃないか。そんな心配も親ならして当然じゃないか。そもそも、こういったことをあれこれ考えていくのが、国語という授業じゃなかろうか。

 と、まあ、以上のようなことを考えて、私は教科書が問う「お母さんは、庭にさいている花を見て、どう言ったでしょう」への答えを「あれは、はこべよ」と書いた。予想していたように、怒られることもバカにされることもなかったが、残念ながら、私の答えがきっかけとなって、みんなが堰を切ったように、多様な読み解きをはじめるといった展開にはならなかった。担任も「夢のねえ親だなあ(笑)」と笑ってくれただけだった。ひょっとしたら、話を広げた結果、他の児童が私に対して「どうしてそんなひねくれたことばかり言うんだ」などと攻撃しはじめる危険性に配慮してくれたのかもしれない。私は、私の当時のクラスメイトをそこまでのバカぞろいだとは思っていないけれど、嫌な奴がいたことも確かだ。だから、さほど盛り上がらなかったことに不満を述べることもなかった。そういった「あれこれ」を考慮できないほど、小学3年生はバカではないのだ。

 さて、少なくとも、実際の答案に「あれは、はこべよ」と書いたのは、私のクラスでは私だけだったと思うのだけれど、全国の同世代のみなさんの中で、似たようなことを思っていたり、あるいは実際に答えた人はどれくらいいるのだろう。「その程度のこと、お前がブログで長々と書くほどのことじゃねえよ」と感じている人もいるかもしれない。いや、いるだろうと思うし、いてほしいとも思う。だって、繰り返すが、子供はそんなにバカじゃないのだ。

太郎こおろぎ (今西祐行全集 2)

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