「『シン・ゴジラ』を殺すな」という叫び

 『シン・ゴジラ』への批判的な意見に対し、少なくない『シン・ゴジラ』支持者から、かなり強い、時には過剰に攻撃的ともとれる反論がぶつけられるのは、単に「自分の支持する作品を貶す者が許せない」という心理だけではない気がしている。かといって、別に「『シン・ゴジラ』には欠点などかけらもない。批判する奴は頭が悪いだけだ」と言いたいわけではない(いや、正直に言うと、欠点がないとは思わないし、好きになれない人がいること自体はしょうがないとも思うが、なかには本当に「こいつ、頭悪いんじゃないか?」と思ってしまうような批判もあるけれど)。

 『絶賛されている『シンゴジラ』が個人的に58点の映画だったので海に身を投げたい』と題されたnoteの投稿が話題になっていて、この投稿に対して、ある人がツイッターでこんなことを呟いていた。

 “この人の言うとおりに作ると「普通の邦画」になるから、今までの「普通の邦画」にも需要ってあったんだなー、と思う。的確に「ありきたりな邦画にしろ」って書いてる”

 私は、この呟きのほうに同感する。しかし、それよりも強く感じることがある。ここで言われている「普通の邦画」(邦画に限らないかもしれない。あるいは、作品そのものというより、作品の宣伝の仕方の問題もある。私が作品そのものは結構好きなのに、日本版の予告および主題歌で観る気をなくしてしまった『ベイマックス』のような例もある)に嫌気がさしながらも、「多くの人はたぶんそういうものを求めていて、そうしないと映画産業そのものが消えてしまうのだろうなあ」と諦めていた人たち、つまり「自分をマイノリティだと思っていた人たち」のことだ。そういう人たちは、仮に我慢しきれなくなって「普通の邦画」に対する不満を述べる場合でも、これまでは「マイノリティ側からのマジョリティ側への反感」という怒りが原動力になっていたわけだが、『シン・ゴジラ』のヒットは、自分をマイノリティだと思っていた人たちに「実は自分たちはマイノリティとは言える存在ではなかった」という、ある種の驚きとそこから湧き上がる別の形の怒りを生じさせたのだと思う。

 すなわち、『シン・ゴジラ』への批判の中でも、特に「普通の映画にしろ」というような主張に対して、激しい反論が寄せられるのは、「私たちの好きなものを批判するな」というより、「せっかく陽の目を浴びることのできた私たちの好きな世界を潰そうとするな」という思いが強く込められているように感じる。「マイノリティだと思って我慢してきたけれど、そうじゃなかったじゃないか! お前らも少しは我慢しやがれ!」という感情が湧いてきても不自然なことではない(それを大きな声で主張することが良いことかどうかは別として)。

 もっとも、ここまで述べてきたような『シン・ゴジラ』支持者の心の叫び(と私が思っているもの)は、『シン・ゴジラ』非支持者よりも映画会社に対してぶつけるべきものなのだろう。「普通の映画」にしか感動できない者に対しては、「感性の貧しい人だな」くらいのことは思ってしまうが、しかし、それがそこまで責められるべきことなのかといえば、さすがに「いや、さすがに言い過ぎました」と謝罪する必要があるように感じる。“「普通の映画」のほうが好き”という場合なら尚更だ。ゆえに、「女性向け」だの「子供向け」だの、そもそも根本的にその考えが間違っているのだろうと言いたくなる映画会社の残念な思考に対して、はっきりNOをつきつけるべきなのだろうけれど、人というのは自分の過ちを認めたくないもので、そういった考えの映画人たちは、『シン・ゴジラ』に対する「普通の映画にしろ」という主張のほうを重くとらえ、自分たちの考えは間違っていないと判断するような気もする。それを『シン・ゴジラ』支持者は、たぶん予想しているから、非支持者に対する反論の声も激しくなる一方なのかもしれない。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])