もはやこれまで

 寒くなってきたせいか、どこからともなく光に誘われた小虫が舞い込んできて、耳元でぷうううんと音をたて、私の擦り切れやすい神経を集団で甘噛みしてくるようなこともなくなってきた。目視できていない小虫を振り払おうと、手を耳元で思いきり振って、勢いあまってメガネまで弾き飛ばしてしまうようなこともない。虫と同じで、不快なエンジン音を撒き散らす輩も減った。いっそ、ずっと小寒いくらいの気候でいてくれれば、私にとっては快適なのだが、そういうわけにもいかないのだろう。詳しいことは分からないが、きっと適度な暑さも、この北海道が私にとって東京よりも過ごしやすい場であることと無関係ではないはずなのだ。それに、今年はたまたま湿度が高くて、小虫が多くて、わずらわしい車とバイクを乗り回す輩が元気だっただけだ。例年通りというわけではなかったのだ。だから、私の神経が例年以上に擦り切れやすくなっていたのも、仕方のないことなのだ。触れた紙幣が全て万札に変化する能力でも身につかないものだろうかなどと、就寝直前や起床直後に考えたりしていたのも、例年通りではない2016年という、やけに私に不向きな年のせいだったのだ。私にはなにも反省する必要なんかない。反省すべきは、天気を司る神のほうなのだ。しかし、天気を司る神の存在など、私には確認しようもない。だから、もし誰かの反省が必要なのだというのなら、私は存在の確認できない神に代わって、「少しイライラしすぎたかもしれないなあ」などと反省してみるのもやぶさかではない。神に代わって反省することを誰かが褒めてくれるのであれば、なおさらである。残念ながら、反省しようがしまいが、私を褒めてくれる人など、この世界には特別天然記念物に指定されるほどの数しか存在していないということが長年の研究によって明らかになったので、私は誰から褒められることがなくとも、反省してみたりするのである。ひょっとしたら、実は存在していた神が申し訳なく思って、私に触れた紙幣が全て万札になる能力を授けてくれるかもしれない。もし、そんな能力を授かることができれば、私はしゃかりきになって働く必要もなくなる。もっとも、今もしゃかりきになって働いているわけではないので、さほど生活に変化は現れないかもしれない。しかし、触れる紙幣全てが万札になるのだから、文字通り、生きてるだけで丸儲けである。買い物をすればするほど、私は金銭的に豊かになるのである。金銭的な豊かさが得られれば、心も豊かになる。そうなれば、多少気候が私にとって快くないものであっても、神経がやたらと擦り減らされることもない。私はきっと大海原のように寛大な人間となって、おおいに慕われることだろう。褒めてくれる人もたくさん現れるはずである。天然記念物どころか、むしろ多少の駆除の必要性が叫ばれるかもしれない。しかし、触れる紙幣全てが万札となる能力を持った私の寛大さは底なしであろうから、きっと駆除の必要性を叫ぶ者たちの心さえも虜にしてしまうことだろう。こうして世界平和が実現するのだ。だから、もし神が存在するのだとしたら、私に触れた紙幣が全て万札になる能力を授けるべきだし、それが神の職権乱用に当たるのだとすれば、私が「触れた紙幣が全て万札になる能力を持つこと」と同等の恩恵を受けるよう世界のすべての人々が努力すべきだと思うのだが、どうやら世界は平和を望んでいないらしく、せっかく小虫や湿気にイライラすることはなくなったのに、財布の中の乏しい紙幣や歯医者の定期検診の報せなどを見て、私はこの世を呪ったりしているのである。