さよなら20世紀の梨たち

 やけに大きな梨をいただいてしまい、特に好きなわけでもないのに、傷んでしまうと勿体ないし、なにより腐敗した食物が家に存在していること自体が許せないので、無理をして急いで食す。梨というのは、スイカほどではないが、ほとんど水分の塊であり、食後しばらくすると、やたらとトイレが近くなる。10月になり、ただでさえ冷えてトイレが近くになりつつあるのに、落ち着かなくてしょうがない。そして、なんだか軽く腹が痛いような気もする。傷む前に急いで食したというのに、腹が痛いような気がするとは、何事か。「急いで食した」という部分に原因があるような気がする。食べきれなかったリンゴを庭に埋めて、リンゴの木が育つのを待っていた知人のように、私も庭に埋めてしまえば良かったのだろうか。どうせキツネあたりがほじくり返して食ってしまうだけだろうが、しかし、万が一、梨の木が育ってしまったら、それはそれで困る。繰り返すが、特に好きなわけではないのだ。嫌いというわけではないから、無理をすればやけに大きなものでも完食できるというだけだ。その結果、微細なる腹痛に見舞われているのだから、本日以降、梨も嫌いなものの仲間に入れてしまっても良いかもしれない。このやけに大きな梨を私に与えたあの人は、それを狙っていたのかもしれない。私に対する嫌がらせか、もしくは梨嫌いの人間を増やすことを目的とした謎の組織の一味か。謎の組織の陰謀は阻止するべきであろうから、私は強靭な精神力でもって、梨に対する憎しみを抑えなければいけないのかもしれない。しかし、そうまでして梨に対する憎しみを抑えたところで、微細なる腹痛は治まってくれないし、そもそも梨嫌いの人間を増やそうとする謎の組織なんて存在しないのだから、素直に「もう梨なんかいらん!」と宣言してしまって構わないのではないだろうか。しかし、もしも世界が大飢饉に見舞われたとき、仮になぜか梨を配って歩く救世主が現れた場合、「もう梨なんかいらん!」と宣言してしまっている私は、施しを受けられなくなるかもしれない。好きなわけでもないが、特に嫌いなわけでもないというままでいたほうが、長く生きられる可能性は高いのではないか。チーズやマヨネーズのように、傍に置かれただけで吐き気がするほど嫌いなわけではないのだ。なら、やはり強靭な精神力でもって、梨に対する憎しみは抑えるべきだろう。そもそも、梨に対する現在の憎しみなんて、私の貧弱な精神力でも充分に抑えられる。しばらく梨なんかいらないが、梨しか食料がないというなら喜んでいただく。しっかり感謝もする。感謝以上のことはできないから、あまり期待はしないでほしい。ただしリンゴは好きなので、もしもリンゴをくれるなら、梨以上の感謝の意を示すことだろう。ゆえに、もしもあなたの目の前に飢えて死にそうな私がいたなら、梨ではなくリンゴを与えるべきなのである。