忘れている奴のことなんて「忘れている」ことすら気づかない

 自分では「もう30歳」と思ってしまうものだが、年齢が上であれ下であれ、3〜4ほど歳の離れた相手からは「まだ30歳」と言われることのほうが多い。今まで生きてきた30年の記憶をさかのぼれば、涙が出そうなほど懐かしく感じるものはあれど、しかし、どれもこれもそれなりにはっきりと思い出すことができる。記憶の大部分をそんな感じに思い出すことができる間は「まだ○○歳」と言っても良いのではないかと、自分にも言い聞かせることにする。「もう○○歳」と考えてしまうと、死にたくなってしまう。

 さて、私は小、中学校であれば、クラスメイトだけでなく、同じ学年の全員のフルネームを記憶している。それぞれの名前の漢字も覚えているので、綺麗な字が書けるかどうかはともかく、卒業アルバムを脇に置かずとも、手書きの名簿を作成することも可能だ。

 もっとも、これは私の通った小学校と中学校が、田舎の小さな学校だったからで、中学校は各学年、2クラスずつしかなかったし、小学校に至っては、1・2年、3・4年、5・6年の複式学級だった。いくら、友達の少ない少年だったとはいえ、学年全員の名前を記憶しているのも、別に不思議なことでも、誇れることでもないだろう。

 さすがに高校ともなると、各学年7クラスほどあったので、自分のいたクラスであっても、フルネームが怪しい者が数名いる。しかし、卒業アルバムを眺めていると、「忘れていたことすら忘れている」ような者は一人もいない。高校では、小・中以上に孤立に近い状態だった私なので、まったく会話したことのない者はたくさんいるのだが、それでも別のクラスの者であっても、何度かは目にしていたし、それを完全に忘れてしまってはいない。

 「ああ、こんな奴いたな」と思うことができれば、それは忘れていたことにはならない。忘れている奴というのは「こんな奴、本当にいたか?」としか思えない奴のことだ。残念なことに、高校時代、私のいたクラスにも他のクラスにも、数は多くないがいろいろあって退学してしまった者がいるのだが、1年生の時点で退学した他のクラスの者というのは、さすがに記憶に残っていない気がする。卒業アルバムには当然載っていないし、視界の端にも入ったことのない可能性もある。記憶に残っていないのではなく、そもそも記憶されていないのだ。これは「忘れていた」とは違う。

 そう考えると、なかなか「忘れる」というのも難しい気がしてくる。私のことをどれだけのクラスメイトが覚えているのだろうと考えることはよくあるが、孤立しているからといって気配が消せているかどうかは別なので、私が思っている以上に覚えられてしまっているのかもしれない。いっそ、卒業アルバムに紛れこんだ辛気臭そうな私の顔を見て「こんな奴いただろうか?」と感じた同級生がいたのだとしたら、そいつとゆっくり話してみたい気もする。まったく記憶にない同級生と語る気分というのは、なかなか興味をそそられる。残念なことに、友達が少なかったくせに、私には「まったく記憶にない同級生」というものが存在しないので、そんな気分を味わうことができないのだ。