元オリーブ児童が旅になかなか出られなかった理由

 少年マンガ誌を一切読まない小学生だった頃の私は、周りに隠れて『オリーブ』を読んでいたのだが、全校生徒が多い時で40名に満たない僻地小学校においては、女子児童の中ですら『オリーブ』を読んでいた子が存在していたのかどうか疑わしい。もしも、私が通ったあの小学校にオリーブ少女が存在していたのなら、もっとお昼の放送(給食の時間、放送委員会がラジオ的にリクエストされた音楽を流したりしていた)で小沢健二の曲が流れていてもよかったはずだ。私の記憶する限り、一度も流れたことがなかった。

 ひょっとしたら私は、オリーブ児童だった頃、実際の「オリーブ少女」と出くわしたことがないのかもしれない。街の本屋で親に『オリーブ』を買ってもらっていた時だって、他の購入者を見かけた記憶がないし、オリーブ感あふれる女性を生で見た記憶もない。北海道の僻地近くの「街」には、そもそもオリーブ少女なんて存在しなかったのかもしれない。

 街へ向かうバスの停まる停留所にすら、そうそう簡単に足を運ぶことができないほどの土地では、子供だけで街へ遊びに行くなどさらに困難である。私が東京へ初めて足を踏み入れたのは、高校の修学旅行だったが、気心知れない同級生たちと集団行動をとらねばならない状態では好きに楽しむことなんかできるはずもなく、ひたすら早く帰りたいと思っていた。

 結局、私が好きなように東京を探索できるようになったのは、日本映画学校に入学してから関東での暮らしに慣れ始めた頃で、すでに成人してしまっていた。渋谷系の王子様は日本からも目立った音楽活動からも離れて久しく、それでも「あの頃」の輝きにすがりつきたい90年代ゾンビのような文化への批判的な言説のほうが目をひき、せっかく東京を自由に歩けるようになった私も、渋谷系文化そのものは好み続けつつも、そこから抜け出せないでいるような人たちに対しては批判的になっていた。

 さて、2007年2月に発売された『クイック・ジャパン vol.70』では「QJゼロ年代日本 次の100人」という企画が掲載されている。そのなかでは、衿沢世衣子よしもとよしともと比較されていた(衿沢世衣子の短編『ファミリー・アフェア』の原作はよしもとよしともである)。よしもとよしともといえば、代表的な短編『青い車』で小沢健二の「ラブリー」に対して批判的な言葉を放つ女性を登場させている。その意味については、ここでは書かないし、あらためて考え直したりもしない。『青い車』という作品に関する評論や感想をいくつか読んだほうが得策だと思うからだ。私がここで書きたいのは、『QJ』の上記企画で衿沢世衣子よしもとよしともと比較されているのを読んだときに感じたことで、それは「衿沢世衣子の作品は、よしもとよしともが『青い車』の窓から投げ捨ててしまった小沢健二の『LIFE』を偶然拾った何も知らない女の子が、何も知らないまま“なんかいいかも”と『LIFE』を聴いているような世界だ」ということだ。たぶん、小沢健二をはじめとする渋谷系文化を、当時とは違った感覚で楽しむ方法を欲していたのだと思う。ちょうど山下敦弘監督の『リンダリンダリンダ』におけるブルーハーツのようなものだ。

 渋谷系の王子様は、ゼロ年代に目立った活動は行わなかった。日本での音楽活動が本格的に再開された頃、私は故郷の北海道へ戻っていた。16年ぶりのテレビ出演となった2014年3月20日の『笑っていいとも!』も先日の『ミュージックステーション』も、私は実家のテレビで観た。元オリーブ児童は王子様のいる「東京」は結局知らずじまいだ。でも、案外そのほうがいいのかもしれない。私にとっていちばん幸せに小沢健二の音楽を楽しむことができる距離感は、どうもこのくらいじゃないかと思うからだ。



小沢健二 - ぼくらが旅に出る理由(Single Edit)


小沢健二 - 流動体について c/w 神秘的 ティーザー広告

LIFE

LIFE

青い車 (CUE COMICS)

青い車 (CUE COMICS)

おかえりピアニカ (Cue comics)

おかえりピアニカ (Cue comics)

リンダリンダリンダ [DVD]

リンダリンダリンダ [DVD]

流動体について

流動体について