それは優しさなんかじゃないと思われているんだ

 「やさしい人が多い場所を「ぬるま湯」と呼ぶ風潮が本当に嫌いだ。いまそこにいる人たちがなんの努力もせずにその場所にたどり着けたとでも思ってるんだろうか」――というツイートが流れてきた。そう言いたくなる気持ち、あるいは状況をまったく想像できないわけではないけれど、否定的な意味でコミュニティを「ぬるま湯」と表現する際、そう呼ぶ人の目には(それが正確であるか否かは別として)、そのコミュニティが「やさしい人が多い場所」には見えていない場合が多いと思う。ゆえに、この指摘はあまり意味をなさない気がする。

 以前、私は漫画『それでも町は廻っている』の「日常」がなぜ壊れないのか、ということについて、ブログで考えを述べたことがある(2014‐10‐08「だから「日常」は続いていく」 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20141008)。

 『それでも町は廻っている』第4巻のあとがきで、作者の石黒正数先生も「歩鳥は何故泣いたのか。単に真田家に同情したわけでなく、日常というものがそれを維持しようとする一人一人の善良さで保たれているという事に気付いてしまったからではないでしょうか」と書いており、これは先のツイートの主張と同じようなことではあるし、私自身、平和なコミュニティの継続には、そこに関わる人々の善良さは不可欠であると考えている。しかし、自分たちにとって平和的で理想的に思えるコミュニティが、他人からみてもそうであるとは限らないし、気づかぬうちに、とても「善良」などとは言えない振る舞いをしている可能性だってある。

 もちろん、「ぬるま湯」だと否定的に捉える側に問題がある場合だって多いだろう。だが、おそらく最初に挙げたツイートでは、反論にはならないのだ。自分たちが平和だと思っているコミュニティに関して、相手が具体的に、どんな点において否定的になっているのかを考えなければいけないのだろう。