腸のきれいなおねえさんは好きですか?
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こんなわたしでも、大学生の頃は、ひまさえあれば新宿や渋谷、池袋や秋葉原、ときにはざわざわうごうごとした下北沢などを、なにかいいことないかしら、なにかおもしろいものないかしら、と歩き回っていました。
日本の最北端近くの、あまり豊かな娯楽というものを享受しにくい土地で生まれ育ったせいでしょうか。東京に放たれたわたしは、それまでむくむくと膨らませるだけ膨らませてきたおもしろいものへの渇望につき動かされて、あっちへうろうろこっちへうろうろとしていたのです。その姿は、さながら「悪い子はいねがー」と町を練り歩くなまはげに近いものがあったかもしれません。なまはげだって、ただ悪い子をさがしているのではなく、きっと悪い子へのおしおきが楽しくておもしろくてしょうがないのでしょう。わたしはそう思います。
そういえば「きれいなお腹がもったいないよ」というお友達の言葉にまんまとのせられて、いわゆる「おへそ出し」な姿をさらしたことさえあります。一回だけでやめましたが、身の程知らずもはなはだしいですね。なまはげさん、悪い子はここにいますよ。
なんだかとてもちんまりとしていた幼稚園児のころ、いまはもうお墓の下ですやすや眠っている祖母から言われた言葉が思い出されます。
「いいかい、七実。お腹は大事なんだよ。男の子にとっても、そりゃあ大事だけれど、女の子にとってのお腹は、男の子にとっての大事とは比べものにならないくらい大事なの。だから、ぜったいにお腹に無理をさせちゃだめだよ。そんなことをしたら、普通の女の子じゃなくなってしまうよ」
祖母はやさしい人でした。
ですが、「普通の女の子じゃなくなってしまうよ」というお説教は、現在においては、あまりよろしくない教育法だと言われるかもしれません。呪いをかけるようなものですからね。わたし自身「“普通”ってなんなの?」という疑問を抱かないわけではありませんでした。
けれども、お年寄りの言葉というのは、迷信そのものであっても、ときに現実を変えてしまう力があるのかもしれません。
祖母のいいつけをやぶった罰なのでしょうか。残念ながらわたしはもう、普通の女の子ではなくなってしまったのです。
なにしろ、腸が飛び出てしまっているのですから。
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わたしはべつに、車に轢かれてしまって、お腹の中身を道路にごっそりさらけだし、瀕死の重体に陥っているわけではありません。そんなスプラッターなお話ではありませんし、そんな目に遭うのはごめんです。
でも、腸が飛び出ているのは、紛うことなき事実なのです。かみなり様は、おへそを奪うといいますが、わたしの腸をひっぱり出してしまったのは、いったいどこのどなた様なのでしょう。
なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。正直に申しますと、わたしにもよく分かりません。分かっているのは、あの日の朝から、わたしの身体が普通ではなくなってしまったということだけです。
あれは、もう就職活動もそれなりにはじめていた頃のことでした。考えてみれば、そんな歳にもなって、自分のことを「普通の“女の子”ではなくなった」というのも、罰あたりなことかもしれませんね。特にわたしは、就職に関しては、のんきといいますか、現実逃避といいますか、他のみんなよりも、かなり出遅れていたくらいなのです。ただし、そのことはひとまず棚の上にしまって、わたしの話をきいてくだされば幸いです。
身体になにか違和感があったということはありません。強いて言えば、いつもより快調であったと思います。
目覚めもよく、どこも痛くないし、痒くもない。気持ちの悪い寝汗なんてかいていませんでしたし、それどころか寝る前にお風呂に入った直後のさっぱりした感じそのままの、奇跡のようにすがすがしい朝でした。
それなのに、たまたま腕がお腹に触れたとき、妙な感触がありました。
あれ? なんかある?
ぷにゅっとしたような、ちゅるんっとしたような。
お腹を見てみると、おへその下あたりが血も出ずにぱっくりとひらいて、そこから、なんともまあ、健康そうできれいなピンク色の腸がぴょろっと飛び出していました。途中でちぎれてしまっているのか、パイプの先のような腸が、お腹からこんにちはしているのです。
風にさらされるのに慣れていないのでしょうか、ひゅーっと空気が吹きつけるたびに、腸の口がひくひくと痙攣していました。しかし、不思議なことに痛みはありません。いえ、血も出ずにお腹がひらいている時点で、摩訶不思議なのですけれどね。
いや、もっと摩訶不思議なのは、そんな自分のお腹を目の当たりにしても、わたしがさほど慌てなかったことかもしれません。
わたしは、とくに普段から冷静というわけではありません。苦手な虫をみれば「うぎゃあ!」と叫び、いらいらすることがあれば人並みに落ち着きを失ってみたり、悲しいことや辛いことがあれば塞ぎこんでしまって、しばらくなにも手につかなくなったりします。
たしかに、知り合いにはもっと感情の起伏のはげしい人もたくさんいましたが、それでもわたしは自分のことを「他人と比べれば、どちらかといえば冷静なほう」だと考えたことはありませんでしたし、そう評されたこともありません。冷静な子は、東京に来たというだけではしゃいだり、一度きりの過ちとはいえ、似合わないおへそ出し姿をさらしたりしません。
なのに、わたしは、自分のお腹がぱっくりひらいて、腸が飛び出ているという事態に対し、それほど驚いたりはしなかったのです。
理由は分かりませんが、ひょっとしたら、これもまたわたしの身体におきた変化のひとつだったのかもしれません。
とは言え、もちろん「なあんだ、腸が飛び出ただけか。しょうがないしょうがない」と、すぐに日常生活を再開したわけでもありません。
それはあまりに無鉄砲で無神経すぎます。そんな人は、そのうち他人に大迷惑をかけそうです。死んだほうがいいのかもしれません。というか、たぶん、その無鉄砲さゆえに近いうちに死んでしまうでしょう。そうすれば、きっとダーウィン賞に輝けることでしょう。
そこまで無鉄砲ではないわたしは、とりあえず、現代文明の象徴、インターネットを駆使して、自分に起きている症状に近いものはないか、検索してみました。
すぐに後悔しました。
当たり前ですが、わたしの身に起きているような症例はみつかりません。
そのかわりに、車に轢かれたりして、お腹の中身を道路にごっそりさらけだしてしまった哀れな人たちの、それこそスプラッターな写真がたくさんディスプレイに映し出されてしまいました。
自分の腸には驚かなかったくせに、わたしは「うひい……」とうめいて、画面を閉じました。その日、目覚めてから、はじめて身体の不調を感じました。死に対する、生物の当然の拒否反応なのかもしれません。
とりあえず、画面を閉じはしたものの、さてどうしましょう。やはり、病院へ行くべきでしょうか。
しかし、わたしの身体は、その必要性を訴えてきませんでした。
スプラッターな画像に対しては、「それは見るものじゃない」と拒否反応を示したのに、そもそもわたしの身体や心は、腸が飛び出ているという事態に目立った反応を示してくれません。心も身体もおだやかなままです。そのころには、腸も空気に慣れてきたのか、ひくひくとした痙攣も治まっていました。
なにか本能的なものが、あるいは超自然的ななにかが、「それはほっておいても大丈夫なものだ」と訴えていたようにさえ思われます。
もっとも、他人にお話できることではありません。お話したら、お腹よりも先に、頭のほうを心配されて、そちらのほうの病院に送られてしまったかもしれません。
わたしの身体は大丈夫。きっと、これでも生きていける。
なぜか、そう確信しました。
ですが、現代人にとって「生きる」とは、単に生命活動が維持できるかどうかだけの話ではないのです。
わたしの身体は腸が飛び出ていても大丈夫。でも、文明を捨てて、野山に隠れて生きることは不可能なのです。そんな知識も体力もありません。しかも、腸が飛び出ているのです。野山に生い茂る草木や枝が、ひらいたお腹に引っかかったり侵入したりすることを想像すると、また腸がひくひくと痙攣しはじめました。
わたしは腸を飛び出させたまま、現代日本の文明人として生きていかなければならないのです。
ひくひくひく。