『東京腸女むすび』(4)

 大学をなんとか卒業して五年が経ちました。
 わたしはいま、北海道のとある地方都市に住んでいます。
 北海道は地元ですが、この町が地元というわけではありません。なるべく、知り合いに出会うことは避けたかったので、結果オーライではありましたが、かねてからの計画通りに人生がすすんでいったわけでもありません。
 どうしてわたしが、せっかく東京に出ていたというのに、地元である北海道に戻ってきたのか。おそらく、みなさん、もうお分かりでしょう。
 そうです、あの腸のせいなのです。
 おもしろいものへの期待はありましたが、東京に大きな夢を抱いて上京したというわけではありませんでした。一年もすれば、すっかり東京での暮らしに慣れていたくらいです。それでも、せっかく東京に出てきたのだから、ここで生きていこうとは思っていました。しかし、大学は卒業することができたものの、わたしは東京で就職することはできなくなったのです。
 あまりにも無能すぎて、どこからも雇ってもらえなかったという話ではありません。いや、「どこからも雇ってもらえなかった」という悲しいお話を披露する機会すらなかったと言ったほうが正しいかもしれません。
 サトウさんが住む東京から距離を置きたかったという思いもありましたが、それが第一の理由というわけでもありません。
 なにしろ、腸の飛び出ている女なのです。
 面接で「それではご自身のアピールポイントを」と訊かれ、「はい。実はわたし、腸が飛び出たままでも、こうして生きることができています」と服をまくりあげて、お腹と腸を見せようものなら、面接会場は大パニックに陥ることでしょう。また、「おお、おなごの腹が見れた。これは良いことだ。採用、採用。うっひっひ」などという面接官にあたってしまったら、こちらから丁重にお断りしなくてはなりません。とにかく、このお腹と腸は、もう誰にもお見せするわけにはいかないのです。
 普段は服で隠しておくことができます。包帯などでお腹を巻いておけば、より安全です。そうすれば、うまくいけば、面接も乗り切ることができて、首尾よく社会人として企業に潜りこめるかもしれません。しかし、就職するということは、健康診断というものを受けなくてはならないのです。
 食べることも飲むことも必要とせず、代謝すらどうやら止まってしまったわたしの身体は、都合の良いことに、理想的な健康状態のまま時間が止まっているかのようでした。
 サトウさんとお別れしたせいで、気持ちとしては、ふにゃふにゃの状態でしたが、身体はいたって健康で、風邪すらひかなかったのです。
 しかし、いくら健康が約束されているからといっても、就職した現代人において健康診断を受けるということは、どうやら避けられないことらしいのです。
 さすがにそこでは、飛び出た腸を隠し通すことはできません。
 わたしに残された道は、健康診断を必要としない非優良企業的な就職先を見つけるか、自営業で生きていくか、無職のままで一生をやり過ごすか、それくらいしかないのかもしれない。そんなふうに考えました。
 それも、なるべく人の少ないところで生きていくほうが良いはずです。人が多ければ多いほど、なにかのはずみでわたしの腸が他人の目にさらされてしまう危険性も高くなるでしょう。
 そういった、やや面倒な事実に直面し、また腸がひくひくしはじめました。
 精神面の問題が内臓にも影響を及ぼすというのは、まったくおかしな話ではないのですが、わたしの場合は、さすがにちょっとおかしな事例でしょう。心よりも先に、腸が反応するときすらありました。しかも、その腸はお腹から飛び出ているのです。飛び出して、わたしにだけ分かるように、そのときの感情によって異なった痙攣の仕方をするのです。
 狭い道を塞ぐようにしておしゃべりするおばさんたちを見ると、ひくひくひく。
 やかましいエンジン音を撒き散らす車に、ひっくひっくひっく。
「うるさい車って大嫌い」そんなお友達の言葉に、ふんふんふん。
 人前で不格好につまずいてしまって、きゅっきゅっきゅっ。
 テレビで好きなお笑い芸人さんを見ていると、きゅんきゅんきゅん。
 映画や小説やマンガの悲しい場面に、きゅるきゅるきゅる。
 腸は口以上に雄弁にわたしの思いを表現しました。そんな腸をわたしはいつしか愛らしく感じはじめ、「腸のせいで就職はできなかった」とは言ったものの、この子のためならしょうがないかと考えました。
 腸が飛び出る前よりも、わたしの頭は、ポジティブですらあったのです。結局、割り切れないのはサトウさんとのお別れのことだけでした。生きることそのものに関しては、心配事は減ったと考えても良かったのです。
 なにしろ、食生活というものとは、完全に無縁になったのです。つまり、わたしは他人よりお金がかからない身体になったということです。だから、それほど心配することはないはずなのです。
 食べていくためには働かなければいけません。むすっとしたお顔で仕事をされている人はよく、「こんなのは食っていくためだけのことだから」とおっしゃります。逆に言えば、食べていかなくても済むのなら、いやなお仕事に時間を奪われなくてもすむということでしょう。
 普通の人たちにとって、この「食べていく」ということは、その他のことも含めた「生きていく」ということと同義なのでしょう。しかし、「食べる」ことが不要となったわたしには、なんだか実感の持てない言い回しになってしまいました。「生きるため」のお金は必要ですが、「食べるため」のお金は、もはやわたしには必要ないのです。
 もちろん、生きるためのお金を得るには、やっぱり多少は働いたりしなければいけません。もし、働けなくなったら、その理由を説明して、誰かに助けてもらわなければいけません。
 とにかく、腸の飛び出た身体を隠しながら、どうやって生きるためのお金を得ていくかです。この問題は、わたしひとりの頭ではどうにもならない気がしました。
 ここでわたしは、生活保護がどうのという、難しいお話をしたいわけではありません。難しいうえに、なにか言おうものなら、いろんな方向から石を投げられるような議題なんて、わたしのような人間には、とても処理できるものではありません。考えるだけで、腸のお口が泣きだしてしまいそうです。どうもこの腸は感情豊かでこまります。
 役所の方に助けを求めるにしても「腸が飛び出ているので働けません」なんて言い分を、肝心の飛び出た腸を見せずに認めてくれるものでしょうか。仮に、なんとか保護制度自体は受けることができたとしても、肩身の狭い思いをしつづけなければならないのでしょう。世の中は世知辛いのです。
 ひっくひっくひっくひっく。
 腸もお怒りのようです。
 これは、助けを求める相手を慎重に選ばなくてはいけません。腸も「ふんふん」と同意します。
 そこでわたしは、とても頼りになる友人の塔子さんに相談してみることにしました。