『東京腸女むすび』(19・完)

 飛行機を降りて、空港へ入った途端、人の多さにすこしだけめまいがしました。
 ひくひくひくひく。
 東京はあいかわらず人だらけですね。
 同じ空港でも、仰光堂の最寄の空港では、人もまばらだったというのに。
 わたしは、そっとお腹をおさえます。
 きっとこの中には、わたしのような生き方をこころよく思わない人たちもたくさんいるのでしょう。
 ひくひくひくひく。
 震えはじめた腸を、やさしく撫でてあげます。他人から撫でてもらえたら、もっと気持ち良いかもしれません。
 もう大丈夫。いや、ずっと前から大丈夫だったのでしょう。わたしには頼もしいお友達がいるのですから。そして、そのことをもっとはやく分かっていれば、あんな後味の悪いお別れをすることもなかったのでしょう。
 でも、さすがに人が多すぎますね。これでは、落ち着いてメールの文章が打てません。何かあったときのため、塔子さんからボギーさんや山上さんの連絡先も聞いておいたのですけれど、間違ってお二人に送ってしまったら、とんでもない笑い話ですね。もう、そういう恥はしばらくごめんなのです。
 飛び立った空港と違い、こちらには喫茶店もあることですし、ちょっと静かな場所に移動しましょうか。
 わたしは、空港内の喫茶店に入り、ここでも紅茶を一杯だけ頼みます。目の前の席で、コーヒーを啜る男性はいません。どんなお話をしようか悩む必要もありません。
 わたしは、最後にお会いした時から一度も連絡することのなかった、それでいて、消去することもなかったアドレスにメールを送ります。
 月が大好きな古くさい女とMDを使いつづけていた時代おくれの男の子です。二人の連絡は、せいぜい電話かメールだけでした。
 そういえば、サトウさんが別の女性とLINEなどで隠れてやりとりしているというような情報は、どんなおせっかいなお友達からも聞いたことはありませんでした。
 どうやら、ちゃんと送れたようです。アドレスは変わっていなかったようですね。
 わたしがゆっくりと紅茶を飲み、カップの底が見えてきた頃、返信が届きました。
「おひさしぶりです。どこでお会いしましょうか?」
 そうですね。どこにしましょうか。そういえば、そろそろ夕暮れどきですね。

      ○      ○      ○

 待ち合わせは、代々木八幡駅近くの小田急線の上を通る歩道橋にしました。
 サトウさんが好きな映画のロケ地になった場所です。
 良い時間を選んだせいか、ここに来るまでの電車は、あまり混雑していませんでした。
「この人たちの歌を聴きながら、夕暮れどきに、人の少ない電車に乗って、生田あたりから代々木八幡あたりまでの景色を眺めてみたら、きっと涙がこぼれてきますよ」
 わたしは、片耳にだけイヤホンをして、サトウさんが教えてくれた歌を聴きます。両耳を塞いでしまうと、大事な声が聞こえなくなってしまいますからね。
 ちょうど夕暮れどきです。電車の中からではありませんが、たしかにこの景色は涙を誘います。なぜでしょうね。
「経堂駅あたりの民家の屋根が並ぶ景色も良いのですよ」
 少し遠回りして、経堂や下北沢の景色も見ておくべきだったかもしれません。でも、それはこれからでも大丈夫です。
「小竹さん?」
 きゅんきゅんきゅん。
 なつかしい声が聞こえました。
 人がなつかしさを感じるには、だいたい十年かかると聞いたことがあります。でも、そこまでの時間は必要なかったみたいですね。
「おひさしぶりですね」
 わたしはサトウさんに言いました。涙はきれいに拭いておきました。
「はい。おひさしぶりです」
 サトウさんも答えてくれました。
「おかわりないようですね」
 サトウさんの言葉に、わたしは「ふふふ」と笑ってしまいました。
 当然ですよ、サトウさん。なにしろ、腸が飛び出てからのわたしは、普通ではありませんでしたからね。
 久しぶりにお会いしたサトウさんは、なんだかあの頃よりも、さらに可愛らしくみえました。
 どれくらい可愛らしかったかといえば、そうですね、結婚を前提としないお付き合いを再開したくなるくらい、とでも言いましょうか。遠距離恋愛というのも、悪くないと思いますよ。
 きゅんきゅんきゅん。きゅっきゅっきゅっ。
 わたしは、そっとお腹に手をあて、腸をなだめました。
 きゅんきゅんきゅん。きゅっきゅっきゅっ。きゅんきゅるきゅん。きゅっきゅるきゅん……。
 腸はおとなしくなっていきます。
 でも、不思議ですね。東京を出てからは、心よりも腸のほうがさわがしかったはずなのに、今日はなぜだか、腸が先におとなしくなってくれました。
 サトウさん。あなたのお友達とその彼女さんのお話に、どうしてわたしがいやな感じがしたのか、ついにわかりましたよ。
 もちろん、サトウさんと同じ理由かどうかは分かりませんけれどね。でも、わたしのほうは遅ればせながら理解しました。ぜひ、それについてもお話しましょうね。そして、これは少々下世話かもしれませんが、そのお友達と彼女さんが、その後どうなったのかも聞かせてもらえますか?
 それから、「ハシモトアヤコさんのブルーベリー」の瓶は、まだ残っていますか? 残っているのなら、ぜひ譲っていただきたいです。あと、申し訳ありませんけれど、いまだに『トム・ソーヤーの冒険』は読み切れていません。感想はまた、いずれ。
 いやいや、それよりなにより、言わなければいけないことがありましたね。

      ○      ○      ○

 では、あらためてお聞きします。
 腸のきれいなおねえさんは好きですか?


 (完)