静養日記18 〜おおきなこえではうたいません〜

 幼少期の記憶というものが周りの人よりも比較的しっかり記憶されているようなのだが、当然、すべてを覚えているわけでもなく、たとえば、どうやら私は保育園に入園してからしばらくの間、「おうたのじかん」(先生のピアノ伴奏にあわせて、園児が全員でうたう)で歌わずにずっと耳を塞いでいたらしい。

 幼児の歌というのは、おおむね音程など関係なく、ひたすら大きな声を出すだけのものであって(ゆえに、保育園の頃に歌わされていた曲のなかには、歌詞はともかく、メロディがさっぱり思い出せないものが多数ある)、それを微笑ましく感じるか煩く感じてしまうかは個人差があるが、私は自分が幼児であった頃から煩く感じてしまうほうであったことは確かで、耳を塞いでいたというのも事実なのだろう。

 幸い、入園したての幼児の行為であったためか、きつく叱られることもなく、幼児と言えども、なんとなく空気を察してしまうのが人間という生き物の(良くも悪くも)社会的な性質でもあり、いつの間にやら私も、周囲に合わせて、ある程度の大声を出すようになっていったのだが、周囲の声の大きさに対しても、自分が大声で歌っていることに対しても、ずっと抵抗は感じていた。

 どうにも世間では「大きな声」が求められることが多い。「元気な挨拶は気持ち良いだろう」などと言う人もいるが、私には「元気で大きな声の挨拶」など、『水曜どうでしょう』の藤村Dのような爆笑誘因性のある声でもない限り、ひたすら心臓に悪いだけである。会話などの際、相手に声が届くようにすることの重要性は理解できるが、「聞き取りやすさ」と「声の大きさ」はイコールではないと思う。

 今は静養中の身であるため、いつも以上に大きな音を避けている。挨拶なんて、私には軽い会釈でもしてくれれば、それで充分、いや、それがいちばん心地良い。