謝っても赦しても、いい事ばかりはありゃしない

 「謝ったら死ぬ病」という言葉をたまに目にするようになって久しい。傍から見れば、どう考えたって(この「どう考えても」という言い回しも、なんだか独善的に思えてなるべく使わないようにしているけれど)おめえさんが悪いのに、どうにかして謝罪しない方向へ持っていこうとして、結果として罪に罪を重ねるような人は結構存在して、たしかに「謝ったら死ぬ病」と呼ばれても仕方のない振る舞いだなと思うし、そんな方々を擁護しようなんていう気もおきないのだけれど、この世の中には「謝罪されたら殺す病」の人も同じくらい存在しているように感じる。

 実際、加害者を殺してやりたいほどの被害を受けたのなら、いくら謝罪されたところでそう簡単に気が済むとは思えない。そんな簡単に人は人を許せないからこそ、月光仮面のキャッチフレーズは「憎むな、殺すな、赦しましょう」なのだろう。そんな月光仮面も残念なことに架空のヒーローである(さらに残念なことに、私には「月光仮面が来ないの」と電話をかけてくるような彼女もいない。いい事ばかりはありゃしない)。そして、殺すほどの罪でもないのに殺したがってしまうような人の数は、なんだか私が考えるよりも多く存在していそうな気がしてならない。他人を殺したいがために、他人の謝罪を引き出そうとするような人間だっているのだ。

 先述の通り、「謝ったら死ぬ病」を肯定なんてするつもりはないが、それが「謝罪されたら殺す病」を恐れるあまりに発症したものであれば理解はできる。理解できないのは、謝罪さえすれば全ておさまると単純に考えられる人の方だ。そう簡単にいかないからこそ、社会を壊さないために法律やら裁判(それに伴う罰則等の数々)といったものが生まれたのだろう。

 「なにか注意を受けた時、謝る前に反論する人が増えたが、納得できなくてもまず謝ってから反論すべきだ」なんて主張を目にしたが、法的な力を持つわけでもない場合、非を認めたわけではない形だけの謝罪にどんな意味があるというのだろう。だいたい、後で反論するのなら、実際の非がどちらにあるにせよ、話し合いが決着しないことにはどうしようもない。おそらく問題なのは、注意することでも反論することでもなく、どのように注意/反論するか(いかにお互い冷静でいられるか、と言っても良いだろう)であって、そんな「とりあえず謝っておけ」なんて態度は、昭和のいる・こいる師匠の漫才だけで充分である。

 「謝ったら死ぬ病」にも「謝罪されたら殺す病」にも怯えて暮らし続けると、当然自分自身も「謝りたくないし、謝られたくもない」という気持ちになり、人を避け、社会を避けることとなる。精神科に駆け込んで、抗鬱剤等を処方してもらえた私は幸運な部類だろう。とりあえず、独りでいても不安に苛まれるということは減ったが、社会に触れる機会が増えてくると、またいろんなものに怯えることになるのだろうなと結局は耐え難い不安を生じさせてしまうのだった。

 

 

 

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いい事ばかりはありゃしない

いい事ばかりはありゃしない